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遠藤新

1889-1951, 建築家 ウィキペディアから

遠藤新
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遠藤 新(えんどう あらた、1889年6月1日 - 1951年6月29日)は、日本の建築家フランク・ロイド・ライトに学び、そのデザイン・空間を自己のものとして設計活動を行った。

概要 遠藤新, 生誕 ...

生涯

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左から、ジョン・ロイド・ライト(フランク・ロイド・ライトの長男)、遠藤新、フランク・ロイド・ライト、伊藤文四郎

1889年福島県宇多郡福田村(現:相馬郡新地町)に生まれる。相馬中学校第二高等学校を経て東京帝国大学建築学科卒業[1]。卒業の翌年には、建築界の大御所だった辰野金吾設計による東京駅建築の批判を発表した。明治神宮の建設に関わった後、1917年帝国ホテルの設計を引き受けたライトの建築設計事務所に勤務。1919年にライトとともに渡米、翌年帰国、1921年までを帝国ホテル設計・監督中のライトの助手として働く。翌1922年、建築事務所を開設[2]

建設費用がかかり過ぎるとしてライトは解雇され、途中で帰国してしまうが、遠藤ら弟子が帝国ホテルを完成させた。関東大震災後には応急建築に奔走し、賛育会産院・乳児院、銀座ホテル、日比谷世帯の会マーケット、東洋軒、陶陶亭、盛京亭、第一屋分店・山邑酒造店などのバラック建築を手掛けた[3]。また、自由学園、山邑邸も、ライトの基本設計を元に完成。1935年からは満州と日本を行き来して設計活動を行った。1945年満州にて第二次世界大戦の終戦を迎えたが、翌年心臓発作で入院し、半年後に日本に帰国した。1949年からは文部省学校建築企画協議会員を務め、戦後占領下の日本における学校建築のあり方に対する提言を行った。1951年4月体調を崩し、東大病院に入院。2ヶ月後の6月29日、心臓病のため同病院にて死去した[2]。葬儀は自身の作品である新宿区下落合の目白ヶ丘教会で行われ、この教会での初の葬儀となった。[4]

独立後もライトに心酔し、ライトばりの建築を設計し続けた。このため、ライトの使徒とも呼ばれ、独創性がないと軽視されることもあった。しかし、ライトの設計思想をよく理解した遠藤の作品は、ヒューマンスケールな広がりのある空間で多くの人に親しまれており、再評価が行われている。

息子である遠藤楽(1927-2003)、遠藤陶(1930-)、孫である遠藤現(1966-)も建築家である。

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作品

要約
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葉山加地邸1927年(昭和2年)2022-12-22撮影
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甲子園ホテル1930年(昭和5年)
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真岡尋常高等小学校講堂1938年(昭和13年)
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目白ヶ丘教会1950年(昭和25年)
さらに見る 名称, 年 ...
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拙新論争

山本拙郎は、調度品まで統一されたスタイルやデザインに縛られる、遠藤(と師であるライト)の住宅思想には居住者の自由がないと批判。これに対し遠藤は、真に良い建築は調度品などにまで至る統一性を示唆できるようなものであると反駁している。

文献

  • 「自由学園女子部の分析を通して“空間意識”を把握する」(船越徹他、建築文化1965年8月号)
  • 「無の探勝 遠藤新の建築作品を巡っての考察試論」(南迫哲也、季刊カラム1984年4月号)
  • 『遠藤新生誕100年記念ー人間・建築・恩恵ー』(INAXギャラリー、1989年)
  • 『建築家遠藤新作品集』(中央公論美術出版、1992年)
  • 『F.L.ライトと弟子達 日本人によるライトの受容と実践』(ギャルリータイセイ、1996年)
  • 『帝国ホテルライト館の幻影ー孤高の建築家遠藤新の生涯』(遠藤陶、廣済堂出版、1997年)

脚注

関連項目

外部リンク

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