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安綱
平安時代中期の伯耆国大原の刀工 ウィキペディアから
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安綱(やすつな)は、平安時代(10-12世紀)に伯耆国(鳥取県西部)の刀工[1]。日本刀が成立した最初期の刀工であり[2]、平安時代を代表する刀工である[3]。伯耆国大原の住人とされる[4]。通称は伯耆安綱[1]、大原安綱[5]。
概要
安綱は古伯耆鍛冶の始祖といわれる。在銘の現存作がある刀工としては最初期の一人である[6][7]。伯耆国の刀工である大原真守は安綱の子とされる[8]。古伯耆一門[9]には貞綱[10]、有綱[11]、真景[12]、友安[13]、安家[14]、日乘[15]らがおり、いずれも在銘の現存作が知られる実在の刀工である。そのため、日本刀剣史では最古級の門派系譜の一つと見なされている。なお、古剣書では安綱の年代を大同(806–810)または弘仁(810–824)と伝えるが、当時はなお直刀期であり、現在の日本刀の姿が整うのは平安時代後半とみられるため、安綱の実年代もその周辺に求めるのが妥当とされる[2]。これだけの時代の遡るものであるにも拘らず在銘作が多く、しかもそれらの殆どが生ぶ茎の状態で遺されているのは、古くより宝刀視されてきたことを物語るものであろう[16]。
作風
作刀は小切先で踏張が強く、鎺元で倒れるような腰反りがつき、物打から先は反りが浅くなるが、古備前物のように先が伏さるような強い感じにならないものが多い。地鉄は大板目で肌が流れて地景がからみ、地沸が一面について沸映りがあらわれ、地景がからんで肌立っており、地色が黒ずむ気味があって、宗近などにくらベて古風な感じというか、未だ洗練されていないというふうな感じをうけるが、これは初期の日本刀が硬軟の鉄をまぜ鍛えにしていた名残りがまだのこされているためであろう。刃文は沸出来の小乱で足がよく入って金筋、砂流しがからんでおり、刃中に刃肌が立って鍛肌にそって刃沸が鎬になるものがある[2]。銘は「安」の字よりも「綱」の字が大きく、しかも「安」の下部が茎の縁へ傾くように刻むのが手癖である[17][18]。
そして安綱の作風は童子切安綱によって代表されるであろう。現存するものは太刀のみであり、姿は鎬造、庵棟、細身で小鋒となり、腰反り高く踏張りがつき、先へいってふさりごころはさほど強くなく優雅な反りをもっている。鍛は板目に地景が交り、地沸が厚く沸映りが乱れて立つ。刃文は小乱に足入り丁子ごころの刃文が交り沸深く金筋、砂流があり、刃区から七、八分のところで焼落しになっている[19]。
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生涯
要約
視点
安綱は伝承上、三郎太夫[20][21][22]、大原三郎太夫[23][24][25]、五郎太夫[26][27][28]、大原大郎太夫[29][30]、大原太郎太夫[31]、大原五郎[32]、大原五郎太夫[33][34]などの名で呼ばれている。このうち、横瀬[35]を安綱の苗字とする説は、諸本の古剣書には見えず、近世以降に見られる呼称である。また、一説には横瀬は上野国新田由良氏の老衆で、北条時頼の評定分に列した刀工爲清とされる[26][36]。「横瀬三郎太夫」は鎌倉一文字派の刀工名として確認されるため[37]、安綱の本名とすることはできない。安綱とは別系統の名乗りが、後世の由緒付けや名義整理の過程で接合されたものとみられる。
鎌倉時代末期の刀剣書『観智院本銘尽』には「伯耆国小原安綱」[38]と記され、実際に伯耆国大原に居住したかは確定しない。現存在銘に「大原」を冠する確実作は確認されていない。「大原」の呼称は子とされる大原真守の銘に由来する慣称と解される。ゆえに、通称としては「伯耆安綱」を用いるのが妥当である。
室町時代前期の刀剣鑑定家・宇都宮三河入道は、足利義満に仕えて目利きと撰銘で知られる。彼の伝える「平泰時被評定分」では、一条院の御代の古刀上工十一人を挙げ、その筆頭に伯耆国大原の安綱を据え、続いて三条宗近や河内国包平などを記す。将軍家の選定でも重んじられ、『上古秘談抄』や「可然物」といった撰録名が伝来する[26][39]。
室町時代後期の刀剣書『古刀銘尽伝書』には、伯耆の天原という池のなかから、白牛に鉄を載せた男が現れた。その鉄を池の畔に埋めるのを、たまたま通りかかった安綱が見ていた。しばらくして行って見ると、その鉄は消えてなくなっていた。その事件に因んで、安綱は天原日照と名乗るようになった、という伝説がある[40]。しかし、一般には天原と日照は別人と考えられている[4]。
桃山時代の刀剣書『花実明徳聞書集』には、子の真守は嵯峨天皇の御宇の刀工で、禁裏の御剣鍛造を勅命された。刃文意匠を奏請すると、勅語は「友達、不惜跡、鵆而、不能行、月卿雲客」。真守は帰宅して父に諮り、安綱はこれを和歌「友ちがひ 跡を惜まぬ千鳥にて 行もやうせぬ 月の雲の端」と読み下し、連れ立つ千鳥を象る乱れ刃を示したという。真守はその教えに従って御剣を鍛え、片仮名で「友チカヒ」と隠し銘を切り、月卿雲客の由来とされた[41][42]。隠し銘は現代の刀剣鑑定では認められず、ロマン化された伝承にすぎない[43]。
江戸時代初期、竹屋系の刀剣鑑定家・長谷川忠右衛門が著した『日本国鍛冶惣約』は、全国の刀工におおよその生没年を付し、安綱を天平勝宝元年(749年)生、弘仁二年(811年)没、63歳とする[21][44]。この年代観は江戸期を通じて広く引用され、古剣書や諸大名家の台帳類にも採用された[45]。現代では、同書の編年は史料的裏付けに乏しい古剣書の創作とみなされている[4]。
近世、米子市日下の沢口家・松本家の伝承では、見出神社跡の墓地に安綱をはじめ先祖の宝篋印塔・五輪塔が多数存在し、安綱ゆかりの者や大原鍛冶の刀工、朝鮮の刀工もともに眠ると語られる。五輪塔は50〜60基に及んだという。伯耆町大原の荒神ブロでは、草地に礎石状の大石が点在し、由緒地として伝えられる。周辺の小字「窯ノ上」「下ノ原」一帯は安綱・真守ら歴代刀鍛冶の鍛刀伝承地とされ、現在は通称「大原千町」と呼ばれる水田地帯となっている。さらに近隣の「長者ヶ平」には金鶏伝説があり、同所の五輪塔を安綱供養塔とする伝えもある[46][47]。
伝承地
要約
視点
伯耆国では古代から「大原」を名乗る地名が各所にあり、地元の崇敬・顕彰の動きも相まって、安綱ゆかりの伝承地が複数比定されている。
日本刀のふる里-大原の里-
倉吉市の東部(天神川東岸)に位置する西郷地区には、文化3 (647)年に大原神社建立の伝承があるなど、太古から重要視されていたところで、7〜8世紀には既に、大原他の地名が歴史上に表れている。当時の製鉄は竹田川上流を中心に盛んで、安網や真守らは、伯耆国河村郡大原に在住し、鍛刀の技を磨いた歴史的痕跡が多く残されている[48][49][50]。倉吉には伯耆国府と伯耆国一宮が所在する。現存品として、「伯耆国一宮日乗」の銘を生ぶ茎に刻む太刀が知られ[15]、古伯耆派の刀工・日乗と倉吉周辺との関係を示す銘文史料となっている。倉吉市大原には、国指定史跡「大原廃寺塔心礎」が所在し、大原廃寺跡の畑地に直径約3メートルの自然石が横たわる。周辺には砂鉄の採掘・水洗の場と伝える跡地があり、また「大原真守の屋敷跡」とする伝承地が伝わる。1985年(昭和60年)10月には、倉吉市大原郷土文化保存会が現地に立て看板を設置した[51]。
伯耆安綱伝承地碑
南北朝から室町時代にかけて成立した軍記物語『太平記』では、「伯耆国会見郡に、大原五郎太夫安綱と云鍛冶」と記す[33]。昭和54年(1979年)12月、幡原敦夫らが岸本町・伯耆町にまたがる大原一帯を踏査し、米子市日下の瑞仙寺にある供養塔の碑文[52]と、松本家・沢口家に伝わる系図を確認した。大原の「荒神ブロ」では礎石状の石の点在が認められ、伯耆町大原神社の聞き取りでは、その地が住居伝承地と伝えられていると記録された。取尾家には鍛冶場伝承があり、庭内から製鉄スラグが出ると伝えられるほか、平らな巨石にまつわる口碑も残る。山林部にもスラグの堆積地が伝わり、戦時中に掘り出して供出した証言がある。『太平記』に見える郡名については、伯耆町大原神社の棟札から会見郡所属の例が示されたという[53][54]。
調査結果を受け、準備は昭和59年(1984年)11月に始まり、1985年9月24日に「伯耆安綱鍛刀伝承地碑」を除幕した。題字は人間国宝の刀工・月山貞一[53][55]。
山伏塚(伯耆安綱の里)
昭和11年(1936年)、栗原彦三郎が下阿毘縁大原を訪問した。路傍で作業中の老農に安綱・真守の遺跡を尋ねたところ、「遺跡と称すべきものはない。ただ向こうの岡一帯を俗に『鍛冶屋敷』と呼ぶ。安綱は当地の豪族出の山伏で、大山から船通山を一日で往復したという話はあるが、大昔の物語にすぎない」という回答を得た。その後、同年の呼びかけを契機に、郡内の有志による探索が進んだ。山上村の神職、内藤岩雄からの報告により、字大原の大タタラ跡付近に大規模な古塚が確認され、現地では「山伏塚」と称し、安綱・真守の屋敷跡および墓所とみなす見解が示されている[56][57]。一方、『伯耆誌』には日野中将に殉じた侍七人の埋葬地と伝える記事があり、古城跡名「山伏七人塚城」[58][59]とする呼称も伝わるとされるため、安綱との関係は明らかでない。2024年の発掘調査では製鉄関連遺構は確認されたものの、安綱・真守との関連性に関する報告はなおない[60]。現段階では、山伏塚は伝承地の域にとどまる[61]。
花ノ御前
日野町上菅の旧菅福小学校校跡に近い山裾に、小祠「花ノ御前社」がある。その名の由来は、伯耆国大原安綱は城もちの刀鍛冶として名高く、その妻は心優しい美人で、里人から「御前さま」と慕われたという。妻の没後、村人が小社を建てて祀り、花のように気立てのよい御前さまだったことから「花ノ御前」と称して参拝するようになったと伝える[62]。別伝では、当地の「菅ノ城」の抱え鍛冶(あるいは城主の子)が安綱のもとで修業し、安綱の娘を妻として連れ帰ったともいう。毎年7月17日にお祭りが催されています[63]。この小祠は、もと大原神社と称していた[64]。同社は大正8年(1919年)7月3日に同村内の八社と合併して高宮神社となり、大正9年7月に菅福神社へ改称した[65]。
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作品

国宝
重要文化財
- 太刀 銘安綱:刃長69.4 cm、反り2.1 cm、磨上げ、目釘孔二[68]。
- 太刀 銘安綱 附糸巻太刀拵:刃長80.6 cm、反り2.63 cm、生ぶ茎、目釘孔二[71]。
- 太刀 銘安綱:刃長74.8 cm、反り3.1 cm、生ぶ茎、目釘孔一[76]。
- 薩摩島津家伝来、号 鬼切[77][18]。もと鎌倉鶴岡八幡宮の相承院伝来とされ、伝・源頼朝ゆかりの品。嘉永6年(1853年)11月に同院住持・権大僧都寛超から島津斉興に届けられた[78]。島津家には初祖・島津忠久が源頼朝の落胤であるとする家伝があり、同家は鬼切を『剣巻』の髭切と同一視しており、その由緒書には『剣巻』の髭切物語がそのまま転記されている[79]。近代の大衆文化において本刀は講談[80]や映画[81]などの創作題材としてもしばしば用いられた。島津家の売立後、三井財閥を経て石島護雄[6]、のち玉利万亀子へと移った。平成23年(2011年)3月22日、国文化庁が7400万円で買い上げ[82]、現在は東京国立博物館に保管されている[76]。重要美術品指定日:1933年7月25日(昭和8)[83]、重要文化財指定日:1954年3月20日(昭和29)[76]。
重要美術品
- 太刀 銘 安綱:刃長78.2 cm、反り 2.7cm、生ぶ茎、目釘孔二[84]。
- 太刀 銘 安綱:刃長71.7 cm、反り2.5 cm、生ぶ茎、目釘孔一[88]。
- 松平春嶽所持[89]。延享4年(1747年)6月12日、松平重昌が越前家に養子として迎えられた際、諸家から銀馬代による礼祝が寄せられ、その額が多額に及んだため、松平宗矩は越前家の重宝となるべき道具を求めることを決し、江戸中を吟味のうえ、本刀と『韻譜』一巻を買い求めて文武の道具とした。さらに伊藤宗治に安綱の紀文の作成を命じ、これを添えて秘蔵とした。当時の買い入れ価格は金二百三十七両半であった[90]。伊藤宗治の紀文は、本阿弥家の数家が輪番で本刀を観覧し、当座の取り扱いは本阿弥光勇が担ったと記す。鑑覧の所感としては「技の妙ここに極まれり」と嘆賞し、姿は高山に登って深淵を臨むかのよう、刃文は基部から先端に至るまで起伏し、流水の波がたゆたうように途切れず巡ると描写する。結語として、安綱の作であることに疑いはないと断じている[91]。のち越前福井藩松平家に重代伝来。
- 昭和4年(1929年)2月12日、金融恐慌に端を発した十五銀行の破綻に伴う資産回復のため、同家の売立が行われた[92]。本刀は拵付で出品され、目貫は蝦夷四分一茘枝、由緒書および延享年間の本阿弥光勇「代金五千貫」折紙付き[93]。売立後の経緯は不明だが、実際に売却されなかった可能性がある。1973年までに松平康昌の妻・綾子(徳川家達の次女)が東京国立博物館に寄託し、同館で初の常設展示に供された[94]。綾子の没後、東京国立博物館の所蔵となった[95]。
- 童子切は東京国立博物館の規定により持出しが禁止されているため[96]、代替として本刀が各展覧会に貸し出されることが多い。平成20年(2008年5月23日-7月16日)、ロシア・モスクワのクレムリン博物館に展示された[97]。同年(2008年10月20日-2009年1月10日)、アメリカ・ニューヨークのメトロポリタン美術館に展示された[98]。重要美術品指定日:1935年8月5日(昭和10)[99]。
- 太刀 銘 安綱:刃長76.8 cm、反り 2.5cm、生ぶ茎、目釘孔二[100]。
- 号 天光丸、壺井八幡宮蔵[101]。社伝によれば、長元年中に源頼信が帯して平忠常の乱を平定し、ついで天喜・康平年間には源頼義が佩用して安倍頼時・貞任を討ち、のち永保年中には源義家がこれを携え奥羽において清原武衡・家衡を征したという[102]。刀身には、源義家の奮戦の跡とされる傷が数か所残る[103]。
- 口伝では、治承の乱の折、多田太郎が金剛山麓へ落ち延びる際に本刀を逸失したとされ、文治元年(1185年)1月15日、壺井宮での神楽を終えた家老・松山八郎右衛門友澄が帰途、半丁ほど隔てた場所で土中に差す光を見つけ、先年の兵火で焼けた灰土の中を手で探ると太刀が現れた。昔と少しも変わらず凛として霜を凌ぐ趣であったため、掘り出して石川義清に差し出し、義清はこれを「天光丸」と名づけ秘蔵した。明徳3年(1392年)12月19日暁天、壺井忠久は千早へ出陣。義清伝来の勝色の鎧をまとい天光丸も帯したが、道中で改めて両者を嫡子・義忠に返付し、討死を覚悟して先祖の重器の散逸を避けた[104]。
- 『河内名所図会』によると、本刀は同じ安綱作の鬼切丸(一名 童子切)と同鉄で作られた「雌雄の太刀」という[104][105]。昭和10年(1935年)5月、大阪の研師・奥田重次郎に研磨された[102]。重要美術品指定日:1935年10月14日(昭和10)[106]。
- 太刀 銘 安綱 祐平ノ磨上銘アリ:刃長67.7 cm、磨上げ、目釘孔二[107]。
県有形文化財
市有形文化財
- 太刀 銘 安綱:刃長73.1 cm、反り2.7 cm[117]。
- 刀 銘 安綱:刃長61.6 cm、反り2.3 cm、目釘孔三[121]。
- 小太刀で、銘は太刀の佩表にある。附 元禄七年(1694年)本阿弥家の鑑定による折紙。諏訪春日神社蔵。社伝によれば、寛永年間、猿橋の小社に一夜の宿を求めた若い浪人が、「此の社を崇敬すれば必ず立身出世あるべし」との神託を受け、のち江戸で精励して旗本となった。慶安期に甲府城代、さらに幕府若年寄(五千石・格式二万石)へと出世したという。名は山口出雲守勘解由と伝え、寛文3年(1663)には「夢想に少しもたがわじ」として現社地に本殿を新築し勧請した。本刀は山口出雲守直承が寄進した。長く出世大神宮の重宝として大切に扱われてきた[122]。大正11年(1923年)県指令学第432号により、出世大神宮・旧猿橋切添大神社・梨木無格社三重神社を合併し、社名を諏訪春日神社に改称した[123]。山梨県大月市有形文化財指定日:1981年8月8日(昭和56)[121]。
- 太刀 銘 安綱:刃長76.4 cm、反り3.3 cm、再刃[124]、磨上げ、目釘孔一[125]。
- 大神山神社伝来。寛保2年(1742年)から安永9年(1780年)にかけて倉吉藩士・松岡布政が著した郷土史『伯耆民談記』の「山の什物」条には「安綱太刀 長二尺五寸」とある[126]。大神山神社の宝物貴重品台帳には一振として「刀 一口 二尺五寸一分、焼刃中直刃、反り深し、無銘、伝来不詳。茎腐食して一見無銘の如くなるも安綱の銘かすかに残る(安綱または守綱とも見ゆ)。地鉄などより推して伯耆物といはる」と記されている。昭和16年(1941年)4月10日付『大阪毎日新聞 鳥取版』によれば、壬生宮司が社宝整理の際に本刀を発現したが、茎の銘は錆により判読不能であった[127]。
- 昭和63年(1988年)9月、全日本刀匠会の森脇要が研磨を施し、錆を落すと「安綱」の銘が現された。平成3年(1991年)4月に米子市美術館へ寄託し、はばき修理や研ぎを施し、同年6月に公開記念展を開催した[128]。鳥取県米子市有形文化財指定日:1991年10月28日(平成3)[129]。
- 太刀 銘 安綱:刃長74.8 cm、反り1.9 cm、再刃、磨上げ、目釘孔三[130]。
その他
- 太刀 銘 安綱:刃長81 cm、反り2.7 cm、磨上げ、目釘孔一[135]。
- 小太刀 銘 安綱:刃長61.5 cm、反り1.5 cm、磨上げ、目釘孔四[138]。
- 太刀 銘 安綱:刃長75.9 cm、反り2.5 cm、磨上げ、目釘孔二[140]。
- 太刀 銘 安綱と銘がある (附)金梨地家紋散金具糸巻略太刀拵:刃長70.4 cm、反り2.5 cm、磨上げ、目釘孔四中三埋[145]。
- 太刀 銘 安綱:刃長80.0 cm、反り2.7 cm、生ぶ茎、目釘孔四中一埋、茎尻には忍孔の断痕が残る[147]。
- 太刀 銘 安綱:刃長74.6 cm、反り2.56 cm、生ぶ茎、目釘孔二[151]。
- 太刀 銘 安綱:刃長77.5 cm、反り3.3 cm、磨上げ、目釘孔二[155]。
- 鳥取藩の家老鵜殿家に伝来した。鳥取県立博物館蔵[155]。
- 太刀 銘 安綱:刃長82.4 cm、生ぶ茎、目釘孔四中一埋、茎尻には衛府太刀拵に由来する四弁形の忍孔がある[156]。
- 脇指(太刀折れからの仕立て直し) 銘 安綱:刃長56.6 cm、目釘孔三[158]。
- 号 鬼切[158]、鬼切丸[159]、鬼截丸[160]。阿蘇小国郷の肥後北里家に伝来した。北里家伝によれば、初祖の源信義(幼名・幸鶴丸)は源満仲の次子・頼親の五男であり、頼親が土佐国に配流となった折、二歳で山伏僧松岡丹後守坊に匿われ養育された。長元元年(1028年)四月朔日、幸鶴丸は本刀と毘沙門天像を携えて源頼信の館を訪れ、像は源満仲の守本尊、刀は源頼光が頼親に与えた信物であると述べた。頼信はこれを喜び、偏諱として「信」の一字を与えて姓を綿貫、名を次郎左衛門尉信義と改め[161]、肥後国二百四十丁・豊後国六十丁を与え下向を命じ、信義は阿蘇小国に居したという。のちに子孫の妙義が綿貫氏を北里氏に改め、本刀は北里家の重宝として代々相伝された[162]。源頼光が大江山で酒呑童子斬った際に用いたと伝わる[163]。家中の定めとして、代々の長女は次代の長女の出生まで家に留まり本刀を守護することとされた[158]。
- 豊臣秀吉が島津征伐のさい、石田三成を使者にして提出を求めてきた。北里三河入道は本刀を、草履取り上がりの秀吉ごときに渡せぬ、と叩き折った[164][77]。北里惟宣は、朝鮮出陣か島原の乱の際に[165]、折れた刀身を脇指に仕立て直したと伝わる[77]。現状は、鎺元から三寸(約9.1 cm)ほどの位置で折断され、先が一尺八寸七分(約56.7 cm)の脇指となっている[166]。昭和6年(1931年)の陸軍特別大演習に伴う地方行幸の際、昭和天皇の上覧に供された[167]。
- 太刀 銘 安綱:刃長69.9 cm、磨上げ、目釘孔三[168]。
- 太刀 銘 安綱:刃長72.42 cm、反り2.2 cm、磨上げ、目釘孔二[168][171]。
重要刀剣(在銘)
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伝安綱作
重要美術品
県有形文化財
- 太刀 無銘 伝安綱:刃長83.3cm、目釘孔一、柄も錆により目釘を抜いても取り外せないであろうことが伺える[193]。
- 号 祖師野丸、石切の太刀。附 藤巻太刀拵鞘。祖師野八幡宮蔵。社伝によれば、祭礼のたびに娘を人身御供とした時代、悪源太義平が自ら身代わりとなり、夜半に社殿へ現れた怪物に対し、腰の藤巻太刀を抜いて斬り付けて退けたという。翌朝、血痕を追って馬瀬川を渡り北方の岩屋に至り、義平が単身踏み込んでこれを討ち果たした。怪物は年を経た白い狒々であったと伝える。犠牲は止み、義平は記念として太刀を当社に奉献し、御神宝として伝来した。祭礼の神輿渡御には随伴させ、岩屋には妙見神社を祀ったともいう[194]。
- また、明和年間の末期には和良代官が太刀の借用を求め、神職田口税太夫は固辞したが再三の懇請により一時貸し出したところ、その夜、社家・代官双方の屋内で長押・鴨居の上を稲妻が走る怪異が起こり、代官は直ちに本刀を返還したという。のち、祖師野丸の詐取未遂の罪を謝して和良代官が神輿と旗鉾を寄進し、銘文に「安永元年(1772年)大阪北久太良町五行上 屋市兵衛作」とある。当社の神輿および旗鉾ならびに本刀はいずれも県指定有形文化財である[195]。
- 長期の未手入れにより、重度の錆腐食が生じていた。2015年8月に愛好者「さなぎ。」が保存活動を立ち上げ、同年11月18日には禰宜立会いの下、井戸誠嗣氏および県職員らによる調査が行われた。保存のため研ぎが相当と判断され、平成28年度には岐阜県下呂市の補助を受けて実施された。2015年12月に関市で保存研磨および白鞘新調等を行い、2016年7月中旬に祖師野八幡宮へ戻された。宝物殿の恒例の虫干しの際に公開される[193]。岐阜県有形文化財指定日:1973年11月14日(昭和48)[196]。
その他
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論争のある作品
重要文化財
- 太刀 銘安綱(鬼切)[200]:刃長84.4 cm、反り3.7 cm、目釘孔二[201]。
- 号 鬼切丸、别名 髭切。最上家伝来。北野天満宮蔵[202]。最上家以前の伝来は客観的な史料が存在しない。享保17年(1732年)11月21日、徳川吉宗の命により最上義章が台覧に供した。当時の記録には、銘の有無や銘字についての記載はない[203]。また、松浦静山の聞き書きによれば、参勤交代の際に随行した唐櫃の「鬼切丸」は代剣であり、本物は大森八幡宮(現・滋賀県東近江市大森神社)に保管され、銘は「国綱」であったという。虫干しの折に本刀を出しておいたところ、夜中にひとりでに抜け出して他の刀と打ち合い、他刀に疵が付いたが本刀は無傷であったと伝える[204]。
- 最上義連が明治2年(1869年)12月20日に新政府へ提出した調書『鬼切丸太刀伝来記』によれば、本刀は源氏累代の重器とされ、刀号は時代により「鬼切丸」のほか「友切」などと呼ばれた時期もあり、のちに再び「鬼切丸」を称するに至ったという。伝来については、源満仲から源頼光、ついでその嫡子・頼国へと伝わり、康平6年(1063年)に源義家が東夷征伐の命を受けた際、頼国方所伝の鬼切丸を強いて借り受け、以後は義家の嫡流に伝来し、一時箱根権現の神宝となったのち源頼朝を経て再び源氏に戻り、その後最上家に伝わったと記す[205]。北野天満宮の展示説明も同書に拠る。同書は源氏から足利氏・斯波氏を経て出羽最上氏へ伝来したとし、鬼切丸の号は、源頼光が大江山の酒呑童子退治でこれを用いたからという[206]。『最上家伝覚書』にも「従足利伝来候鬼切丸之太刀」との記載があり[207][208]、足利将軍家伝来の鬼切(童子切安綱)と通じる由緒を示す記述になっている。このため、鬼切の名をめぐり両者が安綱の代表作だと主張して競合しているとする見解もある。
- 明治3年(1870年)1月8日、家老の鳥越準左衛門に対し台覧の命が下り、同月17日に近江国から刀を取り寄せ、持参した。ただし、天皇による実際の親覧が行われたかどうかについては、記録に明確な記載がない。同日、官側の評議のうえで本阿弥伊勢大丞(本阿弥光品)が拝見して「安綱の作に相違ないが、鬼丸(鬼丸国綱)とは天地の隔たりがある」と述べ、五条少将邸では研師・下妻某が拝見した[205]。
- 明治4年廃藩置県後、当主の最上義連は旧領の茶商いに失敗して破産し、伝家の重宝類も売り払って借財にあて、鬼切丸も京都の質屋に入質された。義連は破産後に失踪し、のち町人籍に改めて毛呂長兵衛と称し、明治22年(1889年)に没した。義連の失踪に伴い入質されていた鬼切丸は、明治13年(1880年)に滋賀県令の篭手田安定が有志の寄附で請け戻して最上家に返し、同家の意向で北野天満宮に奉納された[209]。昭和2年(1927年)4月25日、古社寺保存法に基づく旧国宝に指定された[210]。
- 昭和22年(1947年)、郷土史家・川崎浩良が『太平記』所載の新田義貞の鬼切物語を最上家の鬼切丸に接合し、伝来を「其時此鬚切丸を帯して居たことから由来其太刀を鬼切丸と称じ、頼義、義家、頼朝、義貞、家兼、兼頼と相伝はり、兼頼と共に山形に来たのである。」とする系譜として書き表した[211]。また最上家の従前の足利伝来説も採用していない。この主張は最上義光歴史館および北野天満宮に踏襲された[212]。なお、川崎は参勤交代の折に鬼切丸も江戸・大森間を往復したとし、道中では「箱の下をくぐれば『おこり』に罹らない」との評判から、冥加金を納めて競って箱の下をくぐるのが常であったという逸話も記している[213]。さらに川崎は、明治3年正月の出頭記事を敷衍し、あたかも明治天皇の台覧時に本刀が安綱作と称賛されたかのように叙述しているが、当日の記録に天皇の親覧や賛辞の記載は見当たらない[205]。
- かつては安綱銘を国綱銘に改竄したとされていたが、近年ではこの安綱銘自体も安綱以外の者による後世の追刻と考えられている[214]。刀姿や作風からは備前風が強く[201]、制作時期も伯耆安綱が活動した平安時代より1~2世紀後の鎌倉時代に下るとみられており、東京国立博物館の展覧会図録でも平安~鎌倉時代(12~14世紀)とされている[215]。昭和期の刀剣史家・原田道寛は、最上家に伝来した鬼切丸に、かつて無銘であった時期の押形が存在したことを記しており、無銘である刀を源氏重代・安綱作の鬼切とすることは、史実・根拠ともに薄弱であると述べている[216]。この押形は現存が確認されず、所在も不明である。
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所在不明の作品
- 英女王の安綱
- 飛竜丸
- 自在丸
- 千柴安綱
- 宮本武藏の安綱
- 『武公伝』に、宮本武蔵所持の太刀を大原真守作(三尺余)が記され、のちに沢村宇右衛門友好へ遺贈され、二代宇右衛門期には箱納めで秘蔵とした。ついで、断罪の場で誤って当太刀が持ち出され、大刀取が悪意をもって刃を損なわんと頸骨に叩き付けるよう乱暴に用いたが、二度三度試みても決して断てず、鍛え直しても同じで、ついには血糊が固着して半ばより先が鞘に収まらなくなり、そのまま返納された。家中はこれを穢れとし、直ちに藤崎八幡宮へ宝納して三七日昼夕の祈祷を修したところ、自ずと鞘に納まるに至り、以後は霊剣として七五三縄を張って家宝とした[222]。
- さらに明和七年(1770)の熊本大火では、京町の沢村邸が類焼して家財は焼失したが、二重構造の宝蔵が焼け残り、封を解いて四、五日後に点検すると、当太刀は奥の武具櫃上に無事であったという。後代、『二天記』写本系に「一本作伯耆安綱」の割注が現れ[223]、明治末の顕彰資料でも伯耆安綱名で流布したが[224][225]、銘の実見記事はなく、無銘刀を作風鑑定で伯耆安綱「当同然」とした系譜に属する。『二天記』は、吉岡伝七郎を斬った刀は大原真守だとしている[223]。現所在は不明である。
- 由井正雪の安綱
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脚注
関連項目
外部リンク
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