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1930年ラグビー日本代表のカナダ遠征

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1930年ラグビー日本代表のカナダ遠征は、1930年昭和5年)8月17日から10月15日まで、ラグビー日本代表が初めて行った海外遠征である。9月にカナダブリティッシュコロンビア州で7試合が組まれた[1][2]日本ラグビーフットボール協会は、第6戦のカナダブリティッシュコロンビア州代表英語版戦を、第1回目のテストマッチとして認定した[3]

実現までの経緯

要約
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初の海外遠征を行った日本代表25名。右端のニッカーボッカーズ姿は監督の香山蕃、左端はマネージャーの川目保美。最後列左から岩下、矢飼、清水、松原、萩原、増永、柯、和田、上田、藤井。中列左から、田中、丸山、鳥羽、知葉、宮地、寺村、鈴木、北野、岩前。最前列左から、根本、太田、三島、桜井、小船、都志。(1930年、バンクーバーで)

1925年(大正14年)に慶應義塾上海へ、日本ラグビーとして初の海外遠征を行う[4]

1926年(大正15年)11月30日、日本ラグビーフットボール協会が創立[5]

1927年(昭和2年)、早稲田大学ラグビー蹴球部によるオーストラリア遠征の第1戦が行われたマニラフィリピン)での歓迎会の席上、同部団長の喜多壮一郎が、「学生達は旅行中、3つのNOが約束されている。即ちNo drinking, No Smoking, No dancingが、それである」と、チームの品行方正さについて語った。実際、オーストラリアでの評判も良く、それらが話題となり、当時のシドニー総領事である徳川家正に伝わった[2]

同1927年(昭和2年)には、同志社満州遠征、明治上海遠征を行った[6]

1929年(昭和4年)、日本ラグビーフットボール協会は、日本ラグビーの国際的水準の向上と発展をはかる目的で、イングランドからチームを招へいすることを目指していた。しかし、イングランドラグビー協会から断られ、断念した[7]

徳川家正は、シドニーからカナダ公使へ転任。早稲田大学ラグビー蹴球部に関する上述の評判を、1929年(昭和4年)に設立したばかりのカナダラグビー協会英語版に伝え、早稲田大学ラグビー蹴球部はカナダでの対戦に招待された[2]

しかし、早稲田大学の事情(3年前の遠征から戦力が落ちていることなど)により、この招待は日本ラグビーフットボール協会へ譲られた。カナダラグビー協会は、対応をブリティッシュコロンビア・ラグビー協会英語版に任せ、対戦は1930年(昭和5年)9月に、対戦場所はカナダ西部のブリティッシュコロンビア州に決まった[7]

日本代表を選抜

1930年(昭和5年)5月4日に明治神宮外苑競技場、5月19日に花園ラグビー場で、計4回の選抜試合を実施[8]。最終的に、選手25名(現役学生19名、OB6名)、香山蕃監督、川目保美マネージャー(日本協会書記長)からなる、初の日本代表としての遠征メンバーが編成された[8][7]

遠征

1930年(昭和5年)8月17日に遠征チームは横浜はわい丸で出港、8月29日にバンクーバー到着。9月1日から27日までに7試合を実施。9月24日の第6戦は初のテストマッチとして、ブリティッシュコロンビア州代表英語版との対戦を、バンクーバー郊外スタンレーパーク内にあるブロクトン・オーバル英語版で行った。遠征チームは、まにら丸で10月15日未明に横浜に戻った[7][8]

帰国時に宮地秀雄主将は、「戦ひは総(すべ)てで七戦うち六勝一引分で自分達がこの遠征によって得たいと思ったプレーの点ではむしろ自分達に一日の長があることを発見しました、シーズン始めで彼等が練習不足であるといふハインデキャップがあったとしても最早(もは)や日本ラグビーが世界的になったといふことに疑ひの余地はありません、この上身体の点で彼等と同等になり得るときが来たら恐らく英本国の国際チームにも匹敵するものとなりはしますまいか」と語ったと、『東京朝日新聞』は報じた[8]

帰国後

帰国した翌日 10月16日、「帰国歓迎試合」として遠征メンバーを2つに分け、数名の選手を加えて、明治神宮外苑競技場で紅白戦を行った。この試合は、秩父宮雍仁親王同妃勢津子も観戦した[2]。19日には花園ラグビー場で日本代表と関西選抜とで対戦し[2]、6000人の観客を集めた[9]。対戦詳細は、後述「帰国歓迎試合」参照。

その後

1932年(昭和7年)1月、カナダ代表は日本遠征を行い、同年1月31日に日本国内初のテストマッチを行った[10][11]

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代表キャップ授与

1982年(昭和57年)12月17日、日本ラグビーフットボール協会テストマッチ出場選手にキャップを授与し表彰する制度の導入を決定した。1930年9月24日の初めてのテストマッチまでさかのぼって77試合254人の出場選手に対し、1983年1月16日にキャップ授与を行った[12]

授与されたキャップ番号は、1番から16番(11番との途中交代出場選手)まで、出場時の背番号順に与えられた[13]

報道

日本代表メンバーには、毎日新聞社社員の岩下秀三郎(HO)と寺村誠一(FB)がおり、試合が終わると、2人は原稿を書いて日本へ打電した。その第一報は、第1戦の翌日(日本時間で換算)、1930年(昭和5年)9月3日付『東京日日新聞』に掲載された[9]

「快勝した嬉しさ カナダ遠征ラグビー第一信」との見出しで、「在留邦人も肩身が広くなったとで、その喜びはこの上もない」との感想が述べられ、バンクーバーチームについて「背の高いことは勿論、体重が平均25貫以上(約94kg)、その上足が早いが、こちらが確実なタックルさえすれば、そう恐るべきものではないとの確信を得た」と報じた。第1戦終了後のレセプションについては、「番香坡(バンクーバー)で歓迎攻め 賞揚されたスポーツマンシップ」という見出しで報じられた[9][14]

また、通信社である新聞聯合社を経由して『東京朝日新聞』でも毎試合の結果が報道された[8]

帰国した後には、『サンデー毎日』昭和5年(1930年)11月2日号の表紙に、寺村誠一がボールをキックする姿が使われた[9][15]

試合日程・結果

以下のように、7戦が行われ、日本代表は6勝1引き分けの戦績を残した。

出典:[1][2][7] カナダの一部で 第一次世界大戦中(1914-1918)に導入し 1966年以降はカナダ全州で採用している夏時間[16]は、1930年のバンクーバーでは採用していなかった[17]

さらに見る 日時, ホーム ...
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遠征メンバー

要約
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年齢・所属は、1930年(昭和5年)9月1日(第1戦)時点。出典:[2][7][19]

7試合のうち、第6戦がテストマッチ。1983年(昭和58年)からキャップ制が導入され、翌1984年1月16日に第6戦出場者16名にキャップが贈られた[3][18]

スクラムハーフの岩前博アキレス腱断裂のため途中で出場できなくなり、同じ大学でスタンドオフとしてコンビを組んでいた上田成一郎は、出場機会を与えられなかった[20]

ウイングの鳥羽善次郎(中島善次郎)は、第6戦開始1分前後でタックルを受けて肩を骨折し、退場。両チーム協議のうえ、リザーブとして鈴木秀丸が出場した[21][8]

  • 監督日本の旗 香山蕃
  • マネージャー川目保美(日本ラグビーフットボール協会書記長)
さらに見る Pos., 氏名(旧姓) ...
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試合一覧

要約
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試合はいずれも35分ハーフで行われた[21]。トライ3点、トライ後のコンバージョン成功で2点。ペナルティゴール3点。

第1戦

さらに見る バンクーバー, 18-2213-前半-11 5-後半-11 ...
さらに見る 第1戦 出場選手 ...

第2戦

さらに見る バンクーバー, 17-2211-前半-11 6-前半-11 ...
さらに見る 第2戦 出場選手 ...

第3戦

さらに見る メラロマクラブ, 0-270-前半-16 0-後半-11 ...
さらに見る 第3戦 出場選手 ...

第4戦

さらに見る ビクトリア, 14-165-前半-6 9-後半-10 ...
さらに見る 第4戦 出場選手 ...

第5戦

さらに見る ビクトリア, 6-19 ...
さらに見る 第5戦 出場選手 ...

第6戦(テストマッチ)

さらに見る 3-30-前半-3 3-後半-0, 日本 ...
  • 1930年(昭和5年)当時のルールでは、負傷退場したとしても途中交代は認められていなかった。試合開始1分前後で11番の鳥羽善次郎がタックルを受けた負傷(肩の骨折)で退場し、日本は14人になった。BC州代表監督は自チームの14番を外して人数を合わせようとしたが、香山監督はこれを拒否。最終的に、BC州代表監督からの要請で、鈴木秀丸が交代出場し15人ずつで最後まで戦った[21][8]。1983年(昭和58年)、鈴木秀丸を含め出場した16人がキャップ認定された[3]
さらに見る 第6戦 (テストマッチ) 出場選手 ...

第7戦

さらに見る ブリティッシュコロンビア大学, 3-253-前半-9 0-後半-16 ...
さらに見る 第7戦 出場選手 ...
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帰国歓迎試合

遠征からの帰国後、歓迎試合として2試合組まれた[1][22]

第1戦

さらに見る 日本(白), 38-6 ...
さらに見る 第1戦 出場選手 ...

第2戦

さらに見る 日本, 36-3 ...
さらに見る 第2戦 出場選手 ...
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出典

関連項目

外部リンク

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