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早稲田大学ラグビー蹴球部

日本の大学ラグビー部 ウィキペディアから

早稲田大学ラグビー蹴球部
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早稲田大学ラグビー蹴球部(わせだだいがくラグビーしゅうきゅうぶ、: Waseda University Rugby Football Club)は、ラグビーユニオン関東大学ラグビー対抗戦グループに所属する早稲田大学のラグビー部である。愛称ワセダ。略称早大(そうだい)。全国タイトル29回(全国大学タイトル25回・日本選手権4回)および全国大学タイトル25回東西対抗9回・大学選手権16回)は、共に全国大学最多記録である。

概要 原語表記, クラブカラー ...
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早稲田大学上井草グラウンド

7人制では、YC&AC JAPAN SEVENS優勝3回・東日本大学セブンズ優勝1回を数える。

全国クラブ大会で最多優勝11回を誇る神奈川タマリバクラブは、2000年にOBが中心となって発足したクラブチームである。同じくOBらが所属し2003年に発足したワセダクラブTOP RUSHERSは、トップイーストリーグCグループに所属している。

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概要と歴史

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早慶戦(1927年11月23日)
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早明戦(1934年12月2日)
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試合前に校歌斉唱をする早稲田大学の選手たち(2013年9月・筑波大学戦・秩父宮ラグビー場
  • 1918年11月7日、創部。慶應京都三高同志社に次ぐ日本で4番目のラグビーチーム。創部当時の名称は「早稲田大学蹴球部」。部訓は「緊張・創造・継承」。
  • 1927年オーストラリア遠征が行われる。当時オーストラリアでは2-3-2システムのセヴンフォワードを軸とする展開戦法が行われていた。この遠征によりフォワードのカバープレー(スクラムブレイク後のフォワード-フランカー・NO.8-のオープンプレーへの参加)を学び、その後早稲田ラグビーを語る上で、しばしば用いられる「ゆさぶり戦法」を編み出すこととなる。まさしく部の方向性に大きな影響を与えた遠征であった。1927年から1932年の間に「ゆさぶり」戦法が完成。この遠征で敵のウォークライに対抗して「佐渡おけさ」を踊り、敵地では好評だった。同年、慶應から初勝利。
  • 柯子彰川越藤一郎等バックスに名プレーヤーを配し、早稲田バックス理論の集大成とも言うべき川越理論により黄金期を迎える。この頃世界に先駆けシャローディフェンス完成。この戦前の川越理論は戦後の大西理論と比肩すべき傑出したもので、事実大西自身に多大な影響を与えた(川越は、かの有名なニュージーランド遠征で名をはせる大西ジャパンにブレーンとして参画する)。特に川越キャプテン率いる昭和12年度のチームはシーズン無敗を誇り、部史によれば史上最盛期と述べられている。いわゆる史上最強組である。後年大西鐡之祐は昭和10年前後の早稲田のラグビーを部史上最もレベルの高かった時期と述べている。
  • ラグビーが敵性スポーツと見なされたことから弾圧を受けたが地下壕にボールや用具を隠し、戦後の復興に備えた。1950年、大西監督は野上・川越・柯子彰の協力の下、エイトとゆさぶりの研究に着手-この年をもってエイトFWにおける早稲田式シャローディフェンスがほぼ確立される。同年3・3・2フォワードとホイール作戦により2連覇達成。戦後1950年代に黄金時代を築き、この頃から「荒ぶる」が歌われる。50年代末から60年代に入り低迷。大西鐡之祐監督が復帰し低迷にピリオドを打つ。有名なサインプレー「カンペイ」はこの第二期大西監督時代の1962年に生まれた。
  • 1969年 - 1977年には、関東大学対抗戦で60連勝(2分を含む)・対社会人を含めた公式戦36連勝を達成。同時期に大学選手権13年連続決勝進出・2連覇3回、日本選手権優勝3回を記録、史上最大の黄金期を迎えた。
  • 強力フォワードを擁した「縦の明治」に対して、軽量フォワード・バックス中心の展開ラグビーは「横の早稲田」と言われた。自陣ゴール前で見せる厳しく粘り強いディフェンスは「ゴール前3m の奇跡」と言われる早稲田のお家芸である。必殺のタックルで相手プレイヤーを倒し、一気に攻守を逆転する様は「アタックル」(アタックとタックルの掛け合わせの造語)と呼ばれ、これも早稲田のお家芸とされる。
  • 1981年早明戦の連敗を阻止すべく大西監督3度目の登板。北島監督をして史上最強と言わしめた明治スクラムに対抗すべくローバーシステムを採用する。また津布久をSOに配置(結局、津布久の負傷によりこの構想は頓挫する)。ダブルライン導入(なおダブルラインの理論そのものはすでに1972年の著書「ラグビー」で紹介されている)。絶対不利と目された早明戦に勝利。対抗戦優勝時に「荒ぶる」を歌う。
  • 1982年12月5日、空前のラグビーブームのなか、早明戦が行われた国立競技場は、有料入場券発売枚数が66,999枚を記録し、1964年東京オリンピックの開会式と閉会式の発売枚数に次いで歴代3位となった[1][2]。当時の国立競技場の定員は62,064人だったが、前売り4万枚に加え、当日券約2万枚を求めて会場外に多くの人が集まったため、当日来場しない1~2割の人数を見込んで、追加発売したことによるものだった。これによる観客席の混乱はなかったという[3]。また、当時は正確な入場者数が把握できず、「有料入場券発売枚数」を公式な人数として発表していた[3]
  • 1984年11月23日、早慶戦において、国立競技場の有料入場券発売枚数が同施設で歴代8位の64,001人となった[4]
  • 1987年、早明戦[5] に勝利し、さらに大学選手権の決勝で同志社を破り、11年ぶりに全国大学ラグビーフットボール選手権大会優勝を果たし、また日本選手権では東芝府中を破り、16年ぶりの優勝を果たした。[6]
  • 1995年、低迷中のチーム再建を果たすべく木本監督就任。OB会の要請もあり、当初長期的にチームの指導に携わる予定であったが、癌により翌年12月急逝。早明対抗戦における劇的な逆転勝利は強烈なインパクトを与えた。ダブルライン、戦略的なドライビングモールの活用(ペネトレーティングモール)、パント攻撃に見られるキックとゆさぶりの調和、ライン全体でのディフェンスラインの突破などまさしく、早稲田らしい「ゆさぶり」攻撃の復活と言える。1995年の大西、1996年の木本と、2人の大きな理論的支柱を失ったことで、以降チームは試行錯誤を重ね、清宮監督の登場によりFW重視へと決定的な転換期を迎える。早稲田ラグビー史におけるまさしく-最後の「ゆさぶり」-であった。
  • 2002年、東伏見から上井草へグラウンド移転。2002年度には13年ぶりの大学選手権制覇を果たした。この頃から早稲田のフォワード平均体重は100 kgを超え、インターナショナルレベルに到達する(参考:2007年W杯フランスのFW平均体重は104 kg,早稲田のFW平均体重は103 kg,またV7を達成した神戸製鋼のFW平均体重は97 kgである)。同時に国際級の重量FWを軸にトライを量産。「横の早稲田」から「縦の早稲田」へ、「バックス」の早稲田から「フォワード」の早稲田へ-歴史的な転換期を迎える。なおこの時期、連勝街道を驀進しながらも視聴率・観客動員数は減少の一途をたどった。
  • 2006年、日本選手権2回戦でトップリーグ4位のトヨタに28-24で勝ったものの、次の準決勝にて東芝府中相手に0-43の完封負け。日本選手権において早稲田が完封負けを喫したのは史上初。
  • 2008年度対抗戦で帝京大学に敗れ、2000年早明戦以来の連勝記録が53で止まった。さらに早明戦でも敗れ8年ぶりにシーズン2敗を記録。対抗戦優勝を帝京に譲った。しかし大学選手権では決勝で帝京を破り雪辱、5回目の連覇となる15回目の優勝を遂げた。
  • 2014年度は早明戦が秩父宮ラグビー場で開催された。
  • 2019年度は大学選手権では決勝で明治を破って、11年ぶり16回目の優勝を遂げた。
  • 2023年(令和5年)11月23日 、第100回早慶戦国立競技場で開催した。入場者数は27,609人。ラグビーブームだった1983年(昭和58年、第60回)から1987年(昭和62年、第64回)までの5回は旧国立競技場で行われ、以後35回は秩父宮ラグビー場で行われていた。43-19で慶應義塾に勝利し、1922年(大正11年)からの全100試合通算では73勝20敗7引き分けとなった[7][8][9]
  • 2024年(令和6年)4月1日、女子部を創設[10]
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タイトル

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2007年度全国大学選手権にて

※年は全て年度。

1明治大学と同率1位
2慶應義塾大学と同点両校優勝
3帝京大学と同率1位

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慶明2校との対戦成績

慶應義塾大学

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※招待試合・練習試合・ジュニア選手権等は含まない。2024年度現在。
なお、1923年第6回極東選手権競技大会のラ式蹴球(ラグビー)競技決勝で対戦があり、11-6で慶應が早稲田を破り優勝している[13]

明治大学

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※招待試合・練習試合・ジュニア選手権等は含まない。2024年度現在。

戦績

要約
視点

平成以降のチームの戦績は以下のとおり。

さらに見る 年度, 所属 ...

1明治大学と同率1位
2明治大学・筑波大学と同率2位
3慶應義塾大学と同率4位
4明治大学・慶應義塾大学と同率2位
5帝京大学と同率1位

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4度の日本一

要約
視点

日本ラグビーフットボール選手権大会(通称:日本選手権、前身の『日本協会招待NHK杯争奪ラグビー大会』を除く)で優勝した大学チームは、当校を含めて5校ある(2012年現在)が、複数回の優勝経験があるチームは当校だけである。下記は当校日本一の試合時におけるフィフティーンである。

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※太字はキャプテン。

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荒ぶる・北風

「荒ぶる」はラグビー蹴球部の第二部歌。大学選手権に優勝した時のみ歌うことが許される特別な歌である。そのときの最上級生のみ、冠婚葬祭のときにも歌うことが許される。それ故、優勝チームの下級生からは「自分の代でも荒ぶるを絶対歌います」という決意が異口同音に語られる。近年はフィールドに全部員・コーチ・OBが円陣を組み、主将の発声に続いて斉唱する。第一部歌は「北風」と呼ばれ、現在は、試合前の出陣のロッカールームなどで通常よりも早いテンポで歌われている。

「北風」
北風のただ中に 白雪踏んで
球蹴れば奮い立つ ラグビー早稲田
抜山の威力 蓋世の意気
男児の勢数あれど 早稲田ラグビー ラララララ
早稲田ラグビー ラ
「荒ぶる」
荒ぶる吹雪の 逆巻く中に
球蹴る我等は 銀塊砕く
早稲田のラグビーは 斯界になびき
いざゆけ我らが ラグビー早稲田
ララ早稲田 ララ早稲田
ララララ早稲田
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主な選手

主な在籍した出身者

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早稲田大学ラグビー蹴球部女子部

2024年(令和6年)4月1日に、女子学生によるラグビーチーム活動を行う「女子部」が設立された[14]。Waseda Vision150[15]「グローバルリーダーの育成」[16]に寄与する目的も持つ[14]。ヘッドコーチは横尾千里が務める[17]

2024年に開催の女子7人制「太陽生命ウィメンズセブンズ2024」北九州大会と熊谷大会に、日本ラグビーフットボール協会からの推薦選手で構成される「チャレンジチーム」として、部員2名が招集された[18][19]

2024年4月18日に行われた記者会見では、部員が9人在籍し、男子と同じグラウンドで練習しており、正式な「部」への昇格には選手10人を集めて5年間の活動実績が必要となることが明かされた[20]

関連書籍

所在地

脚注

関連項目

外部リンク

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