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1968年メキシコグランプリ

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1968年メキシコグランプリ
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1968年メキシコグランプリ (1968 Mexican Grand Prix) は、1968年のF1世界選手権第12戦(最終戦)として、1968年11月3日マグダレナ・ミクスカで開催された。

概要 レース詳細, 日程 ...
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背景

ドライバーズチャンピオン争い
本レースはグラハム・ヒルロータス)、ジャッキー・スチュワートマトラ・インターナショナル)、前年度王者のデニス・ハルムマクラーレン)の3人によるチャンピオン争いに決着をつけるためのものであった。当時は6位までが入賞圏内で、ポイントは1位から9-6-4-3-2-1点が与えられていた。同点の場合は上位入賞回数が多いドライバーが上位となる。ヒルとスチュワートは優勝すればチャンピオンを獲得でき、2位以下の場合は他のドライバーの結果次第となる。ハルムは優勝しない限り、2年連続でチャンピオンを獲得できる可能性はない。
  • ヒル(39点 - 優勝2回、2位3回、4位1回)
    • 優勝(48) - 無条件でチャンピオン決定
    • 2位(45) - スチュワートが3位以下
    • 3位(43) - スチュワートが2位以下
    • 4位(42)または5位(41) - スチュワートが3位以下、ハルムが2位以下
    • 6位(40) - スチュワートが4位以下、ハルムが2位以下
    • 7位以下(39) - スチュワートが5位以下、ハルムが2位以下
  • スチュワート(36点 - 優勝3回、3位1回、4位1回、6位2回)
    • 優勝(45) - 無条件でチャンピオン決定
    • 2位(42) - ヒルが4位以下、ハルムが3位以下
    • 3位(40) - ヒルが6位以下、ハルムが2位以下
    • 4位(39) - ヒルが7位以下、ハルムが2位以下
  • ハルム(33点 - 優勝2回、2位1回、4位1回、5位3回)
    • 優勝(42) - ヒルが4位以下、スチュワートが3位以下
日程
10月27日に閉幕したメキシコシティオリンピックと日程が重複しないように配慮するため、閉幕から1週間後に行われた。
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エントリー

要約
視点

ロータスは、地元出身のモイセス・ソラーナ英語版を3台目にスポット起用した[1]フェラーリは、カナダGPで脚を負傷したジャッキー・イクスが復帰したが、脚を副え木で固定しながらという状態であった[2]

エントリーリスト

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追記
  • ^1 - ボニエは予選で自身のマクラーレン・M5Aを壊したため、ホンダから2台目のRA301を借りて以後のセッションに参加した[4]
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予選

要約
視点

ロブ・ウォーカーロータス・49Bを駆るジョー・シフェールポールポジションを獲得し、2番手のクリス・エイモンとともにフロントローを占めた。チャンピオンを争うグラハム・ヒルデニス・ハルムは2列目、ジャッキー・スチュワートは4列目からスタートする[5]

自身のチーム英語版から参加するヨアキム・ボニエは予選2日目、マクラーレン・M5Aに搭載されたBRMエンジンが壊れてしまい、ホンダRA301のスペアカーの借用を申し出た。ホンダはRA301の2号車をボニエに貸し出し、長身のボニエのためにクラッチペダルを調整した[6]。1号車を走らせるジョン・サーティースは6番手で3列目からスタートする[5]

予選結果

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追記
  • ^1 - ボニエは自身のマクラーレン-BRMを壊したため、ホンダからマシンを借りて参加[4]

決勝

要約
視点

フロントローからスタートしたジョー・シフェールクリス・エイモンは逃げられず、グラハム・ヒルが首位に立ったが、好スタートを切ったジョン・サーティースが1コーナーでリードを奪った。ヒルは1周目の後半で首位を奪い返し、1周目を終える頃までにサーティース以下を引き離していった。ジャッキー・スチュワートはエイモン、デニス・ハルムペドロ・ロドリゲスヨッヘン・リントを抜いて3位に浮上した。レース序盤は順位が目まぐるしく変わった[5]。サーティースはヒルを抜いた際にエンジンが8,000rpm以下になると不調を起こすトラブルに見舞われだし、周回を重ねるごとに悪化していった。3周目にスチュワートに抜かれ、5周目に釘を踏んでしまい右リアタイヤがパンクしてしまった。11周目にタイヤ交換を終えてピットアウトしたが、エンジンが急激なオーバーヒートを起こしてしまい、19周目にリタイアした[9]。リントは点火装置の問題でリタイアした[5]ジャッキー・イクスは脚の負傷で前戦アメリカGPを欠場した後フェラーリに復帰したが、彼も点火装置の故障により4周目にリタイアした[2]。スチュワートは数周に渡ってヒルからリードを奪ったが、ヒルはスチュワートから首位の座を取り戻した。ハルムは3位に浮上した直後にマシンの挙動が乱れだしてシフェールに抜かれていき[5]、11周目にダンパーが壊れてバリアにクラッシュし、もぎ取られた左のホイールは2つともピットロード出口の向こう側まで滑っていった。さらに燃料ラインが路面で削り取られ、摩擦による火花で出火してしまった。消火前にハルムはマシンを脱出し、彼のチャンピオン争いは終わった[10]

ハルムのリタイアにより、チャンピオン争いとレースの行方はヒルとスチュワートの一騎打ちとなっていたが、22周目にシフェールが首位に立った。しかし、シフェールはスロットルケーブルが壊れたためピットインしなければならず、再びヒルとスチュワートが1-2位に戻り、ジャック・ブラバムが3位に浮上した。そして、スチュワートは燃料供給の問題によりすぐに後退していく。さらにエンジンがミスファイアを起こし、ハンドリングも悪化していった。51周目にブルース・マクラーレン(ブラバムを抜いて3位に浮上していた)とブラバムがスチュワートを抜いていったが、ブラバムはエンジントラブルでリタイアし、ジョニー・セルボ=ギャバンもエンジントラブルでリタイアしたため、ジャッキー・オリバーが3位に浮上した。スチュワートは7位に後退した。ヒルはトップでチェッカーフラッグを受け、1962年以来2度目のドライバーズチャンピオンを獲得した[5]。オリバーは自身初の3位表彰台を獲得した。1965年以来3度目のコンストラクターズチャンピオンを獲得したロータスは、4月にジム・クラークを失い窮地に陥ったが、それを乗り越えて再びしっかりと前進を再開した[11]。2台目のホンダ・RA301を走らせたヨアキム・ボニエは5位に入賞し、ホンダにコンストラクターズポイント2点をもたらした。しかし、年間合計ポイントは14点でコンストラクターズランキング6位[注 1]、サーティースは12点でドライバーズランキング8位[注 2]という結果にとどまり、シーズン開幕前にはチャンピオン獲得を目論んでいたホンダにとっては不本意以外の何物でもなかった[4]

メキシコ政府は国民の不安を抑えようと努力した結果、憲兵隊から非武装の警官隊に切り替え、観衆を統制するためにコースマーシャルとともにコース上に配置された[12]。しかし、レースが終わる頃には観衆がコース上に侵入した。これが後にメキシコGPを中止に追い込んだ理由の一つとなった[13]

レース結果

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ファステストラップ[16]
ラップリーダー[17]
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レース後

ホンダRA301インディアナポリス・モーター・スピードウェイに持ち込み、F1活動初期の1964年-1966年に在籍していたロニー・バックナムによってテスト走行を行った[18]。その後、本田技研工業が2輪主体から本格的な4輪並行出産に移行するため、世界市場に通用する市販車の開発を優先する方針もあり、F1撤退を決定した。ただし、イギリスのホンダ・レーシングから発表されたプレスリリースは「撤退」ではなく、「ホンダが本格的な4輪メーカーとして成長するまでの”一時休止”」という形を取った[19]。こうして5年に渡るホンダの第1期活動は幕を閉じた。ホンダがF1活動を再開するのは、エンジンサプライヤーとして15年後の1983年まで[4]フルワークス活動の再開は2006年まで待たなければならなかった。

そして、1959年-1960年コンストラクターズチャンピオンを獲得したクーパーもこの年をもってF1から撤退した[20][注 3]

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ランキング

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  • : トップ5のみ表示。前半6戦のうちベスト5戦及び後半6戦のうちベスト5戦がカウントされる。
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脚注

参照文献

外部リンク

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