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山本文男
日本の野球選手、審判員 ウィキペディアから
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山本 文男(やまもと ふみお、1937年9月20日[2] - 2025年8月7日)は、広島県広島市観音(現西区観音)出身のプロ野球選手、プロ野球審判員で、元セントラル・リーグ審判部長[3]。
毅然とした態度で正確な判定が、選手、ファンにも支持された[3]。ペナントレースの重要な一戦は勿論、日本シリーズ、オールスターゲームなど数々の名勝負を担当[3]。担当試合3,564は歴代3位[2][3]。通称「師匠」「審判師匠」。愛称「フミさん」[1]。
審判員袖番号は28(1988年初採用から1996年引退まで、2001年以降は牧田匡平がつけている)。
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来歴
要約
視点
選手時代
太平洋戦争時の疎開のため、広島市立観音中学校を17歳で卒業[2]。広島県立広島商業高等学校へ進学する予定であったが、同中学3年の夏に広島カープの入団テストに合格してプロ入り[1][2][3]。179センチの長身から投げ下すストレートは速く、タテに大きく割れるドロップは鋭く、とても中学生とは思えず[1]。野崎泰一審査委員長も「掘り出しもんじゃ」と驚嘆した[1]。しかし山本は「カープに入るつもりはありません」「自分の力を確かめたかっただけです」とのたまわった[1]。野崎はテストの願書から山本の姉の住所を割り出し、姉宅に日参しやっと入団に漕ぎつけた[1]。中学生プロと話題を呼ぶ。
1年目の1955年は、打撃投手を務めながら7試合に登板。2勝2敗、防御率2.74の成績を残す。8月7日の対国鉄戦(広島総合球場)では、国鉄の大エース・金田正一と投げ合い9対8で勝利投手となっている[1][2]。17歳10カ月で挙げたプロ初勝利は現在もカープ球団最年少記録[2]。
その後、肩を痛め3年目に引退[2]。球団職員となった[3]。このときカープで同じ釜の飯を食ったのが上田利治で[3]、有名な1978年の日本シリーズ第7戦で、広島弁でいうところの"もめさんかえした"のは、上田にとって山本が話しやすい仲だったからで[3]、上田が執拗に抗議を続けた理由の一つだった[3]。
審判時代
1962年、セントラル・リーグ審判部に入局[3]。1963年5月23日の広島-大洋6回戦(広島市民球場)右翼線審として一軍審判デビュー[2]。以後1970年代から1990年代前半まで看板審判の一人として活躍。1990年にベテラン審判が一斉に引退したのに伴い、副部長の座を経ずして第3代審判部長に就任した[2][3][注釈 1]。また、1990年からインサイドプロテクターを着用した。同年から1996年まで、第3代セ・リーグ審判部長を務めた[2]。
通算試合出場数は3564試合(歴代3位)。このほか日本シリーズ13回(1973年・1975年・1976年・1978年~1980年・1982年・1983年・1985年~1988年・1990年)、オールスター6回(1970年、1971年、1975年、1978年、1982年、1986年。うち1978年、1986年第2戦で球審)の出場歴がある。
日本シリーズでは、1982年・1986年に第1戦、1979年・1983年に第2戦、1987年に第4戦、1976年・1980年に第5戦、1975年・1985年に第6戦、阪急・上田利治監督の執拗な抗議で1時間19分中断した1978年第7戦の球審をそれぞれ担当している[3]。
広島県出身ということもあり、広島主催試合の球審を務めていたイメージが強かった。最終出場も1996年5月25日の広島-巨人8回戦(広島)の球審[2]。
田尾安志は達川光男から「山本が際どいコースの球を私が見逃せばボールなんだ」と言っていたと聞いたという[4]。川口和久は山本がおじいちゃんの頃、ど真ん中を「ボール」とコールされ、しかも腕はストライクのときと同じに高々と上げていたこともあった(笑)、と述べている[5]。
引退後は関西所属の審判指導員として後輩の指導にあたり、プロ野球マスターズリーグでの審判のほか、少年野球教室の指導などで活動していた。
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人物
飲食店で野球関係者に飯を奢る際、「わしゃ、広島じゃけん。お好み焼きの勘定はわしが持つ。それ以上に高いもんは、ツケをセ・リーグ会長に回しとけ!」が口癖の天晴れな広島観光大使だった[1]。
審判としてのエピソード
- 完全試合が達成された試合で、球審を2回務めた。
- 日本シリーズでは、優勝チームが初の日本一となる試合で球審を2回務めた。
- 1987年10月19日の巨人-広島戦(後楽園球場)で、巨人の吉村禎章が「カウント2ストライク4ボールからホームラン」を記録した際に球審を務めていた。この際ホームランは、スコアボードの表示(2ストライク1ボール)が手元カウンター(2ストライク2ボール)と異なっていたことから、打者の吉村と捕手の達川光男にカウントを確認した。すると、捕手の達川より「スコアボードの表示が正しい」とのアピールを受け、カウント2-1として投手の白武佳久が次の球を投じてしまったためカウントが確定した。すなわち、守備側のアピールによって起こった珍事であった。ただ、この試合はペナントレース最終戦で既に巨人の優勝が決まっており、完全な「消化試合」だったため、マスコミでも大きく取り扱われず、上記の真相についてもあまり報道されなかった。ちなみに、このホームランは後楽園球場での公式戦最後の本塁打であり、吉村にとってもキャリア唯一のシーズン30本塁打達成となった。
詳細情報
年度別投手成績
背番号
- 44 (1955年)
- 27 (1956年 - 1957年)
脚注
関連項目
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