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岩波書店

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株式会社岩波書店(いわなみしょてん、: Iwanami Shoten, Publishers.)は、 東京都千代田区一ツ橋に本社を置く、日本出版社

概要 岩波書店, 正式名称 ...
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概要 種類, 本社所在地 ...

文芸・学術の幅広い分野における専門書から一般啓蒙書までを広く扱い、国内外の古典的著作を収めた「岩波文庫」や「岩波新書」などの叢書や、国語百科事典『広辞苑』の刊行でも知られる。

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概要

1913年大正2年)8月5日岩波茂雄東京市神田区南神保町16番地(現・東京都千代田区神田神保町)に開いた古書店として出発。正札販売方法を採用し、注目を集めた[2]。同年12月1日に蘆野敬三郎の『宇宙之進化』、翌1914年(大正3年)9月20日夏目漱石の『こゝろ』を刊行し、出版業にも進出[2]。漱石没後に『夏目漱石全集』を刊行し、躍進する。看板は漱石の筆による[3]

昭和時代にはしばしば、大衆的な路線を貫く講談社と対比された[4][5][6]

創業以来岩波書店のマークは橋口五葉が描いた「甕(かめ)」を使用していたが、1933年昭和8年)12月10日岩波全書の創刊からミレー絵画『種まく人』を題材にとったマークの使用を開始(当初デザインを依頼された高村光太郎作のマークは帽子が鉄兜のようで軍国調だとして別人に依頼された。今日まで用いられているマークは児島喜久雄によるものといわれる[7])。

1949年(昭和24年)4月25日株式会社に改組[8]。社長も岩波家の世襲から脱したが、1982年5月に『日本資本主義発達史講座』山田盛太郎他編を復刻するなど講座派の影響はある[9]

1955年に初版が刊行された『広辞苑』は中型国語辞典であり、三省堂が刊行する中型国語辞典『大辞林』と二大巨頭となる国民的辞典のひとつである[10]

本社の隣には一ツ橋グループ小学館集英社があり、2017年平成29年)には所有していた岩波書店一ツ橋別館を小学館に売却している[11][12]

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沿革

販売店での扱い

岩波書店は、多くの出版社が用いる委託・返品制を採用しておらず、全て書店側の買取という責任販売制の形を採っている[14]。また、比較的高正味(=取次への書籍の卸値が高く、出版社側の取り分が多いこと)である[14]

雇用における特徴

2013年度定期採用は、著作者等の「紹介」を応募条件とすることを発表した[15]。これは、事実上縁故採用に限定する方針であるとして批判を受けた。岩波書店はウェブサイト上で「あくまで応募の際の条件であり、採用の判断基準ではありません。採用予定人数が極めて少ないため、応募者数との大きな隔たりを少しでも少なくするためのものです。」とする謹告を出した[16]

出版物

雑誌

かつて刊行されていた雑誌

叢書

かつて刊行されていた叢書

社史・年史

  • 『岩波書店五十年』、1964年
  • 『岩波書店七十年』、1987年
  • 『写真でみる 岩波書店80年』、1993年
  • 『岩波書店八十年』、1996年 - 以上は岩波書店編集部編
  • 『物語岩波書店百年史』全3冊、2013年
    順に、紅野謙介佐藤卓己苅部直が担当
  • 『岩波書店百年』2冊組(限定300部) 、2018年
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「岩波ブックセンター」閉店と後継店

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神保町ブックセンター

神保町にある岩波書店所有のビルには、岩波の書籍を主体とする書店「岩波ブックセンター」があったが、運営していた信山社の倒産に伴い2016年に閉店した。その跡地には2018年4月、小田急グループ企業のUDS社が書店と共用オフィス(コワーキングスペース)などを組み合わせた施設「神保町ブックセンター with Iwanami Books」を開設した[19][20][21]

関連人物

備考

  • 2017年4月9日、Story 〜長寿企業の知恵〜の#008において、7代目である岡本厚が取り上げられた[22]
  • 夏目漱石に宛てて知人・門下生・読者から送られた絵葉書類312通が、岩波書店に保管されていることが判明した。保管に至る詳しい経緯は不明[23]
  • 吉本隆明は、「朝日新聞や岩波書店は、戦時中は戦争肯定の新書などを出していたのに、戦後、いつでも簡単に変われるといわんばかりにいとも簡単に変わったことを目にして、そういう戦後民主主義者や市民主義者とは思想的に一線を画する、こんなのと一緒にされちゃ困るとずっとやってきた」と述べている[24]
  • 黒田勝弘は岩波書店を朝日新聞と自身がかつて所属していた共同通信と共に日本の左派だけでなく、日本国内で「知識人」ならば「韓国開発独裁批判・北朝鮮独裁賛美」するという風潮を導いた、北朝鮮の拉致が提議された際には「拉致疑惑」は差別による嘘だとする意見を出版していた、など日本の世論を誤った方向に向けていたとし、未だに社として謝罪していないとして批判している[25]
  • 平川祐弘は、戦後に岩波書店がイデオロギーの旗振りを行ったのは、「岩波茂雄の創業の精神に悖ると思う」と述べている[26]
  • 岩波書店店歌「われら文化を」は、信時潔作曲、高村光太郎作曲[27]
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脚注

関連項目

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外部リンク

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