トップQs
タイムライン
チャット
視点

藤原俊成女

鎌倉時代前期の女流歌人、藤原俊成養女、堀川大納言源通具の正室 ウィキペディアから

藤原俊成女
Remove ads

藤原俊成女(ふじわら-の-としなり/しゅんぜい-の-むすめ、生没年不詳:1171年承安元年)頃 - 1251年建長3年)以後)は、鎌倉時代前期の女流歌人新三十六歌仙及び女房三十六歌仙の一人。実父は藤原北家末茂流(善勝寺流)出身の尾張守藤原盛頼。実母は藤原俊成の娘、八条院三条。祖父俊成の養女となった。堀川大納言源通具の妻。皇太后宮大夫俊成女俊成卿女の名で歌壇で活躍、後には侍従具定母三位侍従母、晩年出家してからは嵯峨禅尼越部禅尼と呼ばれた。また、藤原定家の『明月記』においては、後鳥羽院出仕以降出家までは、俊成女の住んだ押小路万里小路宅から押小路女房と記されている。

Thumb
皇太后宮大夫俊成女 - 嘉永四年版女百人一首
Remove ads

経歴

実父藤原盛頼が、1177年(安元3年)に発生した鹿ケ谷の陰謀の首謀者の一人藤原成親の弟として責任を問われ失脚、母方の祖父である藤原俊成に引き取られ娘として養育された。1190年(建久元年)頃に源通具の妻となり一男[* 1]一女をもうける。しかし、通具が土御門天皇乳母として権勢を誇る従三位按察局を新妻に迎えるに及んで、行き場のなくなった俊成女は、後鳥羽院歌壇に生きる場を見出す[* 2]。『新古今和歌集』以降の勅撰集定数歌歌合等に多数の作品を残している。1213年(建保元年)出家、以後も歌壇での活躍が続くが、1241年(仁治2年)藤原定家の没後は、播磨国越部庄に隠棲した。1251年(建長3年)以降に書かれた『越部禅尼消息』や、同年9月13夜の影供歌合出詠により、この頃まで健在だったことがわかる。1254年(建長6年)同地で没したともいう[1]

逸話

  • 彼女の歌でもっとも有名なのは、『新古今和歌集』 恋歌二の巻頭歌に撰ばれた歌[2]

  五十首歌たてまつりしに 寄雲恋   皇太后宮大夫俊成女
したもえに思ひきえなん煙たに 跡なき雲のはてそかなしき

新古今和歌集』 巻第十二 恋歌二
この歌によって、彼女は「下燃えの少将」とあだ名されたという。この歌に代表されるように妖艶な歌が多い。技巧的には『源氏物語』や『狭衣物語』などの物語の内容を取り込んだ本歌取りの歌が多い。『無名抄』によると、彼女が公の席などで詠む歌を思案する場合、何日も前から多くの歌集などを繰り返し見て、気がすむまで見終わると、それらをしまって火をかすかに灯して、家の者から離れてじっくり考えたとある。
  • 彼女と夫通具の蜜月時代の産物と目される『通具俊成卿女歌合』[3]断片が残されている。また、彼女と通具の歌合に藤原定家が加判したという記録もある[4]
  • 隠棲していた越部庄の里山付近(現在のたつの市新宮町市野保)に俊成女の墓所があり、地元では「てんかさん」[* 3]と呼んで知恵の神様として信仰されている。
  • 晩年の『越部禅尼消息』は、藤原為家が『続後撰和歌集』を撰んだことを契機として、歴代の勅撰集についての短評を述べている。この中で、後鳥羽土御門順徳の三院が新勅撰和歌集から排除されたことをかなり強い調子で非難[* 4]しており、その点だけを抜き出し紹介された[5]こともあった。
Remove ads

作品

勅撰集
さらに見る 歌集名, 作者名表記 ...
定数歌歌合
さらに見る 名称, 時期 ...
私家集
その他
  • 『越部禅尼消息』 (1251年(建長3年)以降):甥(実の従弟)藤原為家に続後撰集に関する評などを送った。
  • 物語批評の書『無名草子』の著者を俊成卿女とする説がある。通説では、彼女が三十前後の頃の作とする[* 5]。一方、老境に入っての作とする意見もある[9]

脚注

Loading content...

参考文献

Loading content...

関連項目

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads