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サモ・ハン・キンポー

香港出身の映画俳優、映画監督、脚本家、映画プロデューサー ウィキペディアから

サモ・ハン・キンポー
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サモ・ハン・キンポー洪金寶1952年1月7日[注釈 1] - )は、香港出身の映画俳優映画監督アクション監督脚本家映画プロデューサーである[1]。また、アクション俳優として武術指導を行う場合がある。

概要 サモ・ハン・キンポー, 基本情報 ...
概要 サモ・ハン・キンポー 洪金寶, 各種表記 ...

愛称は「大哥大」(ダーイコーダーイ)で大兄貴の意である。

1998年ハリウッド進出を機に、英名をサモ・ハン(Sammo Hung)と短く変更した。

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経歴

要約
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出生〜子役時代

サモ・ハンは、香港の脚本家兼監督の子として生まれる。両親が共働きのため、彼は祖父母に預けられ世話されていたが、とても手に負えないやんちゃな子供で、いつもいたずらやケンカばかりをしていたという。

10歳の頃に、祖母の銭似鶯英語版(せんじおう)に連れられ、于占元(うせんげん)中国戯劇学院英語版に連れて行かれる。京劇子役たちの訓練を見学し、興味を持ち、入学を決意する[注釈 2]

そして8年間にわたって、サモは京劇の基礎を叩き込まれる。ここで、朱元龍なる芸名をもらい、学内でも特に優秀な子供を集めた「七小福」のリーダーに選ばれ、ナイトクラブや舞台などの出演をこなしていく。また、この時期に数本の映画にも出演した。

映画出演-スタントマン、武術指導師時代

サモの映画デビュー自体は中国戯劇学院に入学直後、10歳のときに出演した『愛的教育』だった。続いて『大小黄天覇』、『公主與七小侠』、『人之初中国語版』などでスタントや子役として出演した。

その後、8年間の勉学の後に戯劇学院を卒業したサモは、スタントマンの仕事に興味を持ち、学院で知り合った先輩達の伝手で映画界で仕事をするようになった[注釈 3]

彼は脇役出演をこなしながら、韓英傑中国語版(かんえいけつ)、梁少松(りょうしょうしょう)、徐二牛中国語版(じょじぎゅう)らの指導のもと、武術指導の仕事を経験していく。そして、1970年ゴールデン・ハーベスト(嘉禾電影有限公司)に武術指導師としての契約を結ぶ。武術指導師としては、「七小福」時代の芸名である朱元龍を名乗り、『奪命金瞼』やキン・フー監督作品『迎春閣之風波』などでの武術指導が高く評価された。また、1973年には、尊敬するブルース・リーに声をかけられ『燃えよドラゴン』で共演を果たす。

功夫映画衰退期〜俳優、監督、製作としての成功

しかし、その活躍の場の功夫映画も、ブルース・リーの死とともにブームは衰退の道をたどる。サモはそんな中でいくつかの映画に武術指導として参加していた。ゴールデン・ハーベスト入社以来の師匠とも言われていた黃楓中国語版(こうふう)から、『少林寺怒りの鉄拳』の監督として映画を撮るチャンスを与えられる。この映画がきっかけで、ブルース・リーの未完成作品『死亡遊戯』の武術指導をゴールデン・ハーベスト社より依頼される。

その後サモは、尊敬するブルース・リーへのオマージュとして功夫コメディー『燃えよデブゴン』を製作する。体型からは想像もつかないキレのあるアクションを繰り出し、当時コメディー映画が市場を占めていた香港映画界に、新たな分野を打ち出すことに成功した。そして、1983年には『燃えよデブゴン4 ピックポケット!英語版』で第2回香港電影金像奨主演男優賞を受賞する。

サモは盟友のジャッキー・チェンと共に、時代のニーズを先読みし、新時代のアクションを確立していった。誰もがなしえなかった、体を張った危険なスタントやアクションを次々と提案し、それをこなしていった。以降、サモは様々なアクション、コメディなどのヒット作品を生み出していった。

1980年代半ばに入ると、彼は中国の古くから伝わる妖怪、キョンシーを題材にし、新たに香港映画界にホラー&キョンシー・ブームを生み出し、また豪華な俳優陣を迎えたオールスター・キャスト作品を打ち出した。その最初の作品が『五福星』である。当時、アジアでトップスターになっていたジャッキーも参加し、興行的に大ヒットした。1988年には『七小福』で第8回香港電影金奨主演男優賞を受賞するなど役者としても評価されるようになる。

世代交代-ハーベストとの決別

しかし、1990年代に入ると、サモも新旧交代を余儀なくされる。これまでもユン・ピョウや、 梁家仁(レオン・カーヤン)中国語版など、後輩の育成にも力を注いできたサモであったが、ワイヤーを使った派手なアクションや、海外の複雑なドラマ性を重視し始める時代が到来し、彼の作品は興行的に成功しなくなる。挙句の果てには、公開を見送られることもあるなど、サモは会社ともめることが多くなった。そして、長年の付き合いであったゴールデン・ハーベストと決別する。

それ以降、サモは様々な映画会社の作品に出演、または監督をすることになる。しかし、この時期のどの作品も大衆の支持を得られず、満足のいく収益も得られなかった。また彼はこの頃に、愛人のジョイス・コウと結婚するために、長年連れ添った妻・曹恩玉と離婚していた。

それでもサモは変わることなく、映画に出演し続けた。知人や友人の作品にカメオ出演したり、自らの作品も時代を見据えて、アクション場面を控えたドラマ性の高いものや、大人のコメディや子供向けの作品など、新たな分野にチャレンジしようとしていた。時にはアクションをしない俳優として出演した。

新たなるブーム-海外進出

1990年代末期にハリウッドで功夫ブームが起きた。1999年の『マトリックス』などの作品には、ワイヤー・アクションや功夫など、香港で作られたアクションの技法が取り入れられた。ジャッキーやジェット・リーなどのアクション俳優をはじめ、ユエン・ウーピンユン・ケイなどの武術指導師、ジョン・ウーなどの監督陣もハリウッドに招かれ、香港映画が世界市場を相手に活躍していた。

サモもアメリカに招かれ、CBSで1998年から2000年に放送された米国連続テレビドラマ『LA大捜査線/マーシャル・ロー』に主演として出演した。作品は全米で絶賛され、第2シーズンまで放映された。そして、ジャッキー・チェン出演作品『80デイズ』にカメオ出演を果たすなど、活躍の場を世界に広げている。

その後の活躍

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2005年トロント国際映画祭

アクション俳優としては、2005年の『SPL/狼よ静かに死ね』で悪役として、ドニー・イェンと激しい戦闘シーンを演じ、その武術は全く衰えを見せていない。役者としては、主演作も近年に入って復活しており、『奪師』、『カンフーシェフ』では貫禄のある役柄を演じている。また、『特警飛龍』の署長役、『少林僧兵』の師父(師匠)役など、人を統率する役がらも増えてきている。そして武術指導としては、2009年の第28回香港電影金像獎では、『イップ・マン 序章』で最優秀アクション設計賞を受賞。

2016年、第18回ウディネ・ファーイースト映画祭でライフ・レジェンド・マルベリー賞を受賞[2]

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芸能活動

要約
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アベニュー・オブ・スターズ (香港)手形
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サイン

七小福

「七小福」は香港中国戲劇研究學院における子役エリート集団に冠された名称。のちに活躍する元楼(2012年現:成龍、ジャッキー・チェン)、元彪(ユン・ピョウ)、元華(ユン・ワー)、元奎(コリー・ユエン)、元彬(ユン・ブン)、元武(ユン・モウ)、元徳(ユン・タク)、元秋中国語版(ユン・チウ)などが在籍していた。

サモは年長であったため、周囲から大師兄(大兄弟子)と慕われていた。当時は、体格はよかったが、とくに太ってはいなかった。現在の彼を象徴する大きな体格は、この中国戯劇学院生時代に、かかとを骨折し、入院中に暴飲暴食をしたのが原因だといわれている。ジャッキーの自伝に拠れば、兄貴肌で下の者の面倒見は良かったが、独裁的でわがままな所があったためジャッキー本人とは衝突が絶えなかった。これは、ジャッキーの父親と京劇学校の校長干元占とは国民党時代の戦友であったため、学校内でジャッキーが特別扱いを受けていた反発があったとも言われる[注釈 4]。ユン・ピョウのへそくりをめぐりジャッキーとサモが喧嘩になったときは「お互いのパンチもキックも見えないほど速くて、見る見る両者の顔が腫れていった」と語られるほど2人は喧嘩でも腕自慢であった。

ジャッキーからは互いに還暦を迎え、大多数の共演から盟友と呼べる間柄になった2017年時点では「自分が主人公で相棒を持った作品がたくさんあるが、僕一人だけでは成功できず、彼らのおかげである」と語っており、その一人にサモの名前を挙げるなど認められている節もある[注釈 5]

アクション俳優

太った体型だが動きは非常に軽やかであり、『燃えよデブゴン』ではバク転を連続で披露している。

『福星』シリーズ

香港オールスター映画『福星』シリーズはジャッキー・チェン主演ではなくサモ・ハンの主演・監督の作品である。『五福星』や『香港発活劇エクスプレス 大福星』は香港・日本でヒットした。

シリーズ作品には『五福星』(1983年)、『大福星』(1985年)、『七福星』(1985年)、『十福星中国語版』(1986年)、『福星闖江湖中国語版』(日本未公開、1989年)[注釈 6]、『五福星撞鬼中国語版』(日本未公開、1992年)、『運財五福星中国語版』(日本未公開、1996年)がある。

日本における人気

日本ではジャッキー・チェンの映画によく出ている俳優という程度の認識がほとんどであった。しかし、ブルース・リーへのオマージュ映画『燃えよデブゴン』(1978年)の公開を機に「動けるデブ」として有名になり、さらに映画『霊幻道士』シリーズで製作を務める頃には、日本でも海外人気俳優の一人として認知されるようになった。

燃えよデブゴン』のヒットにより、一時期、日本で放送されたサモ・ハン主演の作品にサブタイトルとして、『燃えよデブゴン』が付けられていた。

また、映画『無問題』ではお笑いコンビ、ナインティナイン岡村隆史と共演した。2010年3月からサントリーの「黒烏龍茶」のテレビコマーシャルに出演している。

日本語吹き替えは水島裕が担当することが多く、ほぼ専任となっている。

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人物

家族

韓国人の曹恩玉との間に4人の子供がおり、後に1984年ミス香港(香港小姐競選)の高麗虹(ジョイス・コウ)と再婚した。

  • 曹恩玉:韓国人。元妻。
  • ジョイス・コウ(中国名:高麗虹):現在の配偶者。1984年度ミス香港。元女優。オーストラリア国籍。
代表作:『イースタン・コンドル』(原題:東方禿鷹、1987年)『98分署 香港レディ・コップス』(原題:皇家女将、1990年)『レッド・リベンジ -復讐の罠-』(原題:龍鳳賊捉賊、1990年)など。
  • 洪天明中国語版:長男。中韓混血。英語名はTimmy(ティミー)。
TVB(香港無綫電視)の司会者兼俳優。代表作:『導火線 FLASH POINT』『香港国際警察/NEW POLICE STORY』など
  • 洪天祥中国語版:次男。中韓混血。英語名はJimmy(ジミー)。
歌手、バンド「TENSION」のメンバー。代表曲:『尋人啓事』『借住』など。
  • 洪天照中国語版:三男。中韓混血。英語名はSammy(サミー)。
俳優。代表作:『特警飛龍』『少林僧兵』など。
  • 洪煦榆中国語版:長女。中韓混血。英語名はStephanie(ステファニー)。
芸能界入りが噂されている。

死亡騒動

2007年12月9日に、新華社通信人民日報を初めとする中国の一部メディアで8日にサモが急死したというニュースが流れる騒動が起きた[3]。各地方紙などもこれに追従しトップニュースとして報じた[4]が、インタビューに応じた長男のティミーは「父は弟のサミーと共に山東省でTVドラマ「少林僧兵」の撮影真っ最中であり、これらの報道は全くの事実無根」とこれを即座に否定[5]。同日午後にはサモ本人も撮影地から電話インタビューに応じ、この死亡騒動に怒りを露にすると共に「心配してくださった皆さんに感謝します」とコメントし、死亡は誤りであると伝えた[6]。この騒動において事実確認を行わず安易に報道したとしてメディア側は批判に晒され、サモ本人も誤報記事を流した各種メディアに対して一時は訴訟の構えを見せるほど激昂し[7]、人民日報等は後にお詫びの時評を掲載するに至った[8]

馬主として

2014年1月26日に実施されたセンテナリースプリントカップ(香港ローカルGI)で所有馬のアンバースカイ英語: Amber Sky中国語: 崇山寶)が優勝した [9][10]。また同年3月29日に実施されたドバイミーティングにて、アルクォズスプリント(国際GI)に優勝した[11]

主な出演作品

要約
視点

映画

●印は主演 ◎印は準主演 ○印は出演

BS放映題:B CS放映題:C DVD題:D 劇場公開題:M テレビ放映題:T ビデオ題:V

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テレビドラマ

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日本でのメディア出演

CM

テレビ番組

脚注

関連項目

外部リンク

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