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アメリカの映画スタジオ ウィキペディアから
パラマウント・ピクチャーズ・コーポレーション(Paramount Pictures Corporation)は、アメリカの映画およびテレビ番組の製作・配給会社であり、パラマウント・グローバルの子会社。世界で5番目に古い映画スタジオであり[1]、アメリカでは2番目に古い(ユニバーサル・ピクチャーズ設立の8日後)1912年に設立された映画スタジオ。「ビッグ5」と呼ばれるアメリカの映画スタジオの中で唯一、現在もロサンゼルス市内に存在する。
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カリフォルニア州ハリウッドのメルローズ・アベニュー5555番地のパラマウント・スタジオ | |
商号 | パラマウント・ピクチャーズ |
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以前の社名 |
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種類 | 子会社 |
業種 | 映画 |
前身 |
フェイマス・プレイヤーズ・フィルム・カンパニー フェイマス・プレイヤーズ=ラスキー・コーポレーション |
設立 | 1912年5月8日 |
創業者 |
ウィリアム・ワズワース・ホジキンソン アドルフ・ズコール ジェシー・L・ラスキー |
本社 | カリフォルニア州 ハリウッド メルローズ・アベニュー 5555 パラマウント・スタジオ |
事業地域 | 世界中 |
主要人物 | ブライアン・ロビンス(会長 & CEO) |
製品 | 映画 |
所有者 | ナショナル・アミューズメンツ |
親会社 |
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部門 |
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子会社 |
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ウェブサイト |
www |
1916年、映画プロデューサーのアドルフ・ズコールは24人の俳優と女優を契約させ、それぞれにロゴに星をつけた。1967年、星の数は22個に減らされ、隠された意味も取り払われた。2014年、パラマウント・ピクチャーズはハリウッドのメジャースタジオとして初めて、全作品をデジタルのみで配給するようになった。本社とスタジオは、カリフォルニア州ハリウッドのメルローズ通り5555番地にある。
モーション・ピクチャー・アソシエーション(MPA)のメンバーである。日本ではパラマウント映画(パラマウントえいが)の名前で知られている。
1912年にアドルフ・ズコールが設立した「フェーマス・プレイヤーズ」を源流とし、その後「フェイマス・プレイヤーズ・ラスキー・スタジオ」と呼称して、1924年に「パラマウント」に社名を変えた。ただしパラマウントはもともと1914年にW・W・ホドキンスンが設立した映画配給会社[2]の社名であり、アドルフ・ズコールのフェーマス・プレーヤーズが製作した映画の多くを配給していた会社であった。そして1916年にズコールがこの配給会社の実権を握り、同じ年に1913年に設立された「ジェシー・L・ラスキー・フィチャー・プレイ・カンパニー」と「フェーマス・プレーヤーズ」と合わせて3社が合併して「フェイマス・プレイヤーズ・ラスキー・スタジオ」となり、その後社名を「パラマウント」にしたものである。
アメリカ映画界で設立当初から大手メジャー会社として君臨し、製作と配給部門を掌握したズーカーがやがて劇場の買収を進め、アメリカの映画史上初めて製作・配給・興行の垂直統合を実現して、徹底したスターシステムと豪華主義でサイレント時代から映画界をリードしていたが、大恐慌時には破産宣告を受ける。しかし1935年頃に再建して後には都会派コメディーに力を入れて復活した。1966年にはコングロマリットのガルフ&ウェスタンの傘下となり、1994年には大手ケーブル会社バイアコム(現・パラマウント・グローバル)に買収されて今日に至っている。大型画面が盛んとなった1950年代に独自にワイドスクリーンのビスタビジョン(ビスタサイズ)を開発したことでも知られる[3]。
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
東欧系ユダヤ人としてハンガリーで生まれたアドルフ・ズコールは移民労働者からハリウッドのタイクーンになった人物である[6]。
彼は若くして新大陸に渡り、モップ拭きからスタートして毛皮商として成功し、そして後に劇場王となる同業者の親友、マーカス・ロウ[注 1]に触発され、ボードビル会社を設立[注 2]。次いでニッケルオデオン興行から映画配給、映画製作へと進出した。
1912年、製作プロダクションの乱立で作品の質の低下に行き詰まりを感じたズコールは、1906年頃にフランスに起こった、文学や戯曲の名作を当時の人気舞台俳優たちに演じさせて映画を作る芸術映画運動(フィルム・ダール)[注 3]に注目して、フランスに行き、当時舞台での大女優サラ・ベルナールを口説き落として全財産を注ぎ込んで製作したのがサイレント映画の大作「エリザベス女王」で、これをアメリカに逆輸入して大ヒットさせた。ズコールはこれに力を得て同年映画スタジオを設立、「・・有名な戯曲を有名な俳優によって映画に・・」(あるいは「・・名優を名作で・・」[8])をキャッチフレーズにフェーマス・プレーヤーズと名付けた[9]。
この時ボードビリアンのジェシー・ラスキー、手袋商のサミュエル・ゴールドフィッシュ[注 4](後にゴールドウィンと改名)、当時脚本家で後に大プロデューサーとなるセシル・B・デミルらと組んで、翌1913年にハリウッド初の長編映画「スクォー・マン」を製作する[10]。
さらには、D・W・グリフィスが『國民の創生』(1915年)、『イントレランス』(1916年)を次々発表。ズーカーの経営手腕は凄まじいもので、人気スターの出演作を次々購入・製作し、市場を奪われた興業者たちの間では「ズコールを止めろ!」が合言葉になる程であった。20年半ばでの収益はフォックスの2倍、ユニバーサルの3倍、ワーナーの5倍に及んだ[6]。やがて、ズコールとラスキーはそれぞれの会社と新興の配給会社パラマウントを併合して、フェイマス・プレイヤーズ・ラスキー・スタジオとなり、それが今日のパラマウント・ピクチャーズとなった。
ピラミッド型の特徴的なパラマウント山は、創業以来、同社のプロダクションロゴの主役であり、現存するハリウッド映画のロゴとしては最も古いものである。サウンド時代には、このロゴに、1930年に公開された同名の映画にちなんで「パラマウント・オン・パレード」というファンファーレを付けていた。このファンファーレの歌詞は、もともと1930年の映画で歌われたもので、"Proud of the crowd that will never be loud, it's Paramount on Parade. "というものである。
伝説によると、この山はウィリアム・ホドキンソン(en:William Wadsworth Hodkinson)がアドルフ・ズコールと打ち合わせをした際に作った落書きが元になっているという。これは、彼が幼少期に過ごしたユタ州での思い出が元になっていると言われている。ユタ州のベン・ローモンドがホッドキンソンの落書きした山で、ペルーのアルテソンラジュが実写のロゴの山だとする説や、イタリア側のモンヴィーゾがこのロゴのモチーフになったとする説もある。ロゴの版によっては、ワサッチ山脈のもう一つの山であるファイファーホルンや、スイスとイタリアの国境にあるマッターホルンに酷似しているものもある。また、アラスカのハンティントン山にも酷似している。
映画ロゴは、長年にわたって多くの変化を遂げてきた。
アメリカの映画史を語る場合に、1948年の「パラマウント訴訟」[注 5]を外すことはできない。パラマウントの創業者のズーカー、フォックスの創業者ウイリアム・フォックス、ユニバーサルの創業者カール・リームル、MGMの創業者のルイス・B・メイヤーとマーカス・ロウ、そしてワーナー兄弟らは最初は映画興行者としてこの世界に入った。そして彼らはやがて映画興行の分野から配給業者として配給の分野を抑えて、やがて映画製作の分野に進出した。そして製作・配給・興行の三部門をいずれも自社で賄い、特に映画館をそれぞれが自社の傘下に入れて、ほぼ市場を独占して寡占化の状態となった。
こうした製作・配給・上映を垂直に統合した構造的連携は前例のない競争力を発揮して、製作者は作っても上映されない不安はなく、映画館は毎週のプログラムに穴があくような作品不足を心配することはなく[注 6]、配給者は製作側と上映側との調整で効率的に宣伝活動が行える体制が出来上がった。こうした製作・配給・上映を連結させた垂直統合構造[注 7]が主流となり、これに最も尽力したのがアドルフ・ズーカーでパラマウントは早い時期からアメリカの映画会社のメジャーとなった[11]。
1940年代にはアメリカ映画界のメジャー会社としてパラマウント、MGM、ワーナー・ブラザース、RKO、20世紀フォックス[注 8]のビッグ5と、ユニバーサル、コロンビア、ユナイトのリトル3を合わせて8社が挙げられていた。この当時パラマウントは破産と再建を経て筆頭会社に挙げられていたのである[12]。それは一方で、ビッグ5と呼ばれた各社が独自の配給網を使って傘下の映画館には自社のA級作品を優先的に卸して独立系の映画館には人気の無い作品を高額で卸し、また独立系プロの製作した作品は自社の映画館には卸さない差別的な商法[13]でもあったので、このことで苦情や抗議が相次ぎ、1938年に司法省がビッグ5のメジャー5社に対して独占禁止法に触れるとして訴えを起した。これが筆頭会社の名をとって「パラマウント訴訟」[注 9]と今日では呼ばれているものである。
訴訟は第1次と第2次の訴訟で裁判が長引き、地裁、高裁を経て最高裁が差し戻し、1948年に地裁で独占禁止法に触れるとする判決が出されて、まずRKOが同年11月、パラマウントは1949年3月に判決に同意した[注 10]結果、この判決のため、各社とも自社で抑えていた劇場網である映画館を手放さざるを得なくなった[12]。これによってメジャー各社は最大の収益源であった劇場を手放すことになり、興行側が自由に競争できるフリー・ブッキング制に移り、またテレビの登場で観客数の減少傾向になったことで、映画会社は余裕があった時代には製作できた「B級映画」を削減せざるを得なくなり、1本の作品にかける大作主義をとるようになった。それは当然製作本数の激減を生み、監督やスタッフ、俳優の需要が減り、やがて1960年代後半から1970年代半ばにかけて映画製作の本拠地であったハリウッドのスタジオが閑古鳥に泣く事態となり、ハリウッドが生まれてから続いた「スタジオシステム」を崩壊させて、映画の都ハリウッドの変貌をもたらすことになった。
HD DVDとBlu-ray Disc(以下“Blu-ray”)がDVDの後継フォーマットを巡って争った、いわゆる当時の「次世代ディスク(次世代DVD)戦争」では、パラマウントは、当初HD DVDのみを支持していた[注 11]が、Blu-rayの生産コストがDVDとほとんど変わらなくなったことを受け、2005年10月には、ワーナー・ブラザース(以下“ワーナー”)と共に両フォーマットを支持する方針に転換して、Blu-ray版ソフトのリリースを開始。その結果もあり、フォーマット争いはBlu-ray有利で進んでいた。
2007年8月20日、パラマウントは突如として再びHD DVD版のみをリリースする方針に転換する事を発表、発売を控えていた複数のBlu-rayタイトルが発売中止。既発売のBlu-ray版ソフトも出荷が停止された[注 12]。俗に“パラマウントショック”などと呼ばれた本件に対して、当時パラマウントのヒット作である『トランスフォーマー』の監督・マイケル・ベイなどを筆頭とした各クリエーターや識者は、パラマウントの方針を強く非難した。[注 13]また、規格争い終結後、ドリームワークスのCEOが、「皆さんがご存知のように、我々はHD DVDのみを独占的にサポートすることで多額の補償を受けていた」と、ロイターの取材で公言している。[14]
その後、2008年1月4日に、ワーナーがソフトリリースをBlu-rayに限定すると発表したことで、HD DVD市場が急速に終息化、2月19日には、東芝がHD DVD事業を全て終了すると発表。パラマウントも、2月21日にBlu-ray Discに再参入することを発表し[注 14]、“ パラマウントショック ”から始まった迷走は、終焉を迎えた。
日本市場でもパラマウント本社の意向を受ける形で日本法人が動いた事もあり、概ね同じ経緯でHD DVD/Blu-ray版ダブルリリース → 既発売Blu-ray版ソフトのリリース停止 → HD DVD版生産終了 → Blu-ray版ソフトリリース復活、という流れになった。2008年7月25日には、BOXを含む6タイトル、8作品のBlu-ray版ソフトが再リリースされ、HD DVDのみで発売されていたタイトルも相次いでBlu-ray化された。
戦前に日本法人のパラマウント映画日本支社(パラマウントえいがにほんししゃ、初代)を設立し、「パラマウント映画チェーン」という独自の洋画興行チェーンなどで上映していた。1931年に興行部門を同業他社の松竹の洋画興行部門「松竹座チェーン」と合併して松竹パ社興行社(しょうちくパしゃこうぎょうしゃ)とし、共同で「SPチェーン」を営業していた。1933年に興行を撤退。以降も日本支社は存続して各映画館に配給していたが、1941年12月8日の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が開戦した為に解散した。
1946年にセントラル映画社の設立によって映画配給を再開、同社が解体された1951年末にパラマウント映画日本支社(2代目)を設立した。1970年、パラマウントとユニバーサルの合弁企業シネマ・インターナショナル・コーポレーション(CIC)の発足に伴い日本支社は解散した[15]。映画配給はCIC(後にユナイテッド・インターナショナル・ピクチャーズ、UIP)、ビデオソフト販売はユニバーサル、日本ビクターとの合弁会社として1984年1月20日に設立されたCIC・ビクター ビデオ(シーアイシー・ビクター ビデオ)によって行われた。
2001年にユニバーサルは日本法人ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパンを設立し、ビデオソフト販売をCIC・ビクター ビデオから変更した。翌2002年6月にパラマウントはCIC・ビクター ビデオをパラマウント ホーム エンタテインメント ジャパンと改称してホーム・エンタテインメント事業を行った。
2005年にUIPの世界的な事業再編が発表されると2007年5月にユニバーサル作品の東宝東和での配給が決まり、同年9月にパラマウント ホーム エンタテインメント ジャパンはパラマウント ジャパンに改称し、新たに設けられた映画配給部門でパラマウント作品の映画配給を開始した。
2012年10月、社名をパラマウント・ジャパン合同会社に変更した。
2015年10月8日、東宝東和と劇場配給契約を締結[16]。これまでの自社配給に代わって翌2016年2月1日から東宝東和の新子会社・東和ピクチャーズがパラマウント作品の劇場配給を行うことを発表、映像ソフト販売も同年1月1日からNBCユニバーサル・エンターテイメントジャパンに移管した(ただし、パラマウント・ジャパン合同会社は継続[17])。
長年パラマウント・ピクチャーズ ブルーレイ&DVD公式サイトで採用され続けてきた「Viacom」(2代目)及び「ViacomCBS」のバイラインは2022年4月に全面的に廃止し、東和ピクチャーズ オフィシャルサイトで使用し続けてきた「ViacomCBS」のバイラインも、同年4月に廃止した。
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