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土屋 政直(つちや まさなお)は、江戸時代前期から中期にかけての大名・老中。常陸国土浦藩主、駿河国田中藩主。
土浦藩主土屋数直の長男として生まれ、父の死後に家督を相続する。その後、駿河田中藩を経て土浦藩に復帰する。漸次加増をうけ、最終的に9万5000石となる。奏者番、大坂城代、京都所司代を経て老中に就任、元禄11年(1698年)に老中首座となり4人の将軍に仕えた。
元禄15年12月14日 (旧暦) (1703年(1702年ではない)1月30日)、赤穂事件が起こり、討ち入りがはじまるとすぐ、吉良邸隣の土屋逵直から通報を受けた[1]。政直らの老中は即刻、上杉家に使者を送り、援軍を送らないよう鎮撫している。
側用人政治を展開していた新井白石と間部詮房には内心反対し、7代将軍徳川家継の後継者争いの際、側用人の廃止を条件として徳川吉宗の擁立に尽力する。吉宗は将軍になると老中らに口頭試問をしたが、なんとか恥を掻かずに済んだのは3問中2問を答えることができた政直のみだったという。
享保4年(1719年)、老中を辞任・隠居して四男の陳直に家督を譲り、3年後に82歳の高齢で亡くなった。隠居後も特に前官礼遇を受けていた。
茶道を嗜み、遠州流の門人の一人でもある。また、赤穂事件の際に、討ち入りを通報してきた従甥の土屋逵直の次男好直を養子に迎えている。
※日付=旧暦
※日付=旧暦
父母
正室、継室
側室
子女
養子、養女
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