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神王(みわおう)は、二品・志貴皇子の孫。榎井王の子。右大臣となり、桓武天皇の近親として桓武朝後半の治世を支えた。従二位、贈正二位。吉野大臣と号した[2]。
称徳朝の天平神護3年(767年)無位から従五位下に直叙される。
宝亀元年(770年)伯父にあたる光仁天皇が即位すると、二世王待遇となり従五位下から一挙に四階昇進して従四位下に昇叙される。翌宝亀2年(771年)左大舎人頭、宝亀8年(777年)大蔵卿を経て、宝亀11年(780年)正四位下・参議に叙任し公卿に列す。また、この間に美作守・下総守と地方官も兼任している。
桓武朝に入ると、議政官として大蔵卿のち弾正尹を兼ねる。延暦年間後半には高官に昇り、延暦12年(793年)従三位、延暦14年(795年)中納言、延暦15年(796年)大納言、延暦17年(798年)従二位・右大臣に至る。延暦16年(797年)の大納言・紀古佐美の薨去により太政官の首班を占め、同じく桓武天皇の従兄弟である大納言・壱志濃王とともに、天皇の近親として桓武朝後半の治世を支えた。またこの間、延暦16年(797年)に施行された『刪定令格』の編集にもあたっている。
延暦24年(805年)11月に壱志濃王が薨去、翌延暦25年(806年)3月に桓武天皇の崩御、神王自身も従兄弟の後を追うように、同年4月24日に薨去。享年70。最終官位は右大臣従二位。即日正二位の位階が追贈された。
礼儀正しく慎み深い性格で、飾ることがなく、物事にも執着せずあっさりしていた。顕官に昇ったが、よく終わりを全うした[3]。
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