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日本の将軍 ウィキペディアから
足利 義尚(あしかが よしひさ)は、室町幕府の第9代征夷大将軍[2](在職:文明5年(1473年) - 長享3年 (1489年))。
『尊卑分脈』や『足利家官位記』により、後年、義凞[3](あるいは義煕)(よしひろ)と改名したことが確認できるが、一般的には義尚の諱で知られる。
応仁の乱では、叔父の足利義視と将軍職をめぐる対立候補として擁立された。乱後は衰退した幕府権力を回復すべく、六角征伐などの積極的な幕政改革を行なったが、在陣していた近江国の陣中にて病死した。
寛正6年(1465年)11月23日[4][3]、8代将軍・足利義政と正室・日野富子の次男として生まれる。義尚が誕生する4か月前の7月には側室の茶阿局が男子(等賢同山)を出産しているが、庶子である彼を後継者にするつもりがなかった義政は翌年4月には出家させるために天龍寺香厳院へ送っている。つまり、初めから義尚が将来の将軍家の後継者となることが前提となっていたと考えられている[5]。長らく実子のなかった義政は弟の義視を養子にしていたが、義尚が誕生すると将軍後継問題が発生した。義政は義視を中継ぎとして就任させてから、その上で義尚を将軍にするつもりであったが、義尚の養育係であった政所執事・伊勢貞親は義視の将軍就任に反対であった。
文正元年(1466年)9月、貞親は義視に謀反の疑いありと義政に讒言し、義視の排除を図った。しかし、義視が細川勝元の邸宅に駆け込み救援を求めると、勝元は山名宗全と結託して義政に抗議し、これにより貞親は失脚し京を去った(文正の政変)。これで義視の将軍就任も間近と思われたが、やがて宗全は幕政を牛耳ることを目論み、畠山氏の家督をめぐって畠山政長と争っていた畠山義就を味方に引き入れ、義就に上洛を促した。義就と宗全は御霊合戦で政長を破ったが、政長に肩入れしていた勝元が反撃を開始し、応仁元年(1467年)、応仁の乱が勃発した。勝元の要請に応じ、義政は東軍に将軍旗を与え、西軍を賊軍とした。これにより、東軍は正当性の面で優位に立ったが、大内政弘が入京すると西軍は形勢を盛り返し、戦局は膠着状態となった。
応仁2年(1468年)、義政が、かつて義視を陥れようとした貞親を政務に復帰させると、これに反発した義視は西軍へと出奔した。これにより、義視が将軍に就任することはなくなった。
文明5年(1473年)12月19日、9歳のとき、義政から征夷大将軍を譲られ[6]、9代将軍に就任し、あわせて正五位下左中将となる[4][3]。同日、元服し、義尚と名乗る[3][7]。加冠は、父・義政[3][4]。就任当時はまだ9歳であり、政務の実質は義政・富子夫妻と富子の兄である日野勝光が中心となって行った。
文明6年(1474年)6月10日(『足利家官位記』では6月19日[3])、従四位下[4]。同7年(1475年)1月28日、美作権守を兼ねる[3]。同年4月19日、正四位下[4][3]。同年9月17日、参議・左中将如元[8][3]。同8年(1476年)1月6日、従三位[9][3]。同9年(1477年)1月6日、正三位[10]。同11年(1479年)1月5日、従二位[11][3]。
文明11年(1479年)11月になって、御判始・評定始・御前沙汰始を行って[3]本格的な政務を開始するが、義政が実権を手放さなかったために父子間の確執が生じた。同年、受衣[12][3]。法名を道治、道号を玉山、のち悦山とした[3]。
文明12年(1480年)3月29日、16歳のとき、権大納言に任じられる[13][3]。
文明14年(1482年)7月、義政は政務を義尚に譲る意思を表明し、翌年6月には東山山荘に退くが、依然として義政が実権を握り続けたため確執は収まらなかった。
文明15年(1483年)3月21日(または22日。『足利家官位記』は23日とする[3])、19歳のとき、従一位[14]。同16年(1484年)12月23日、源氏長者[3]。同日、両院(奨学院・淳和院)別当[15]。同17年(1485年)8月28日、右近衛大将を兼ねる[16][3]。
文明18年(1486年)1月5日、右馬寮御監[17][3]。同年12月になって、義政は改めて政務からの引退を表明したが、それでも対外交渉と禅院に関する事項は依然として義政が実権を握り続けた[18]。
応仁の乱後、下克上の風潮によって幕府の権威は大きく衰退した。義尚は将軍権力の確立に努め、長享元年(1487年)9月12日、公家や寺社などの所領を押領した近江国守護の六角高頼を討伐するため、諸大名や奉公衆ら約2万もの軍勢を率いて近江へ出陣した(長享・延徳の乱)。高頼は観音寺城を捨てて甲賀郡へ逃走したが、各所でゲリラ戦を展開して抵抗したため、義尚は死去するまでの1年5か月もの間、近江鈎(まがり・滋賀県栗東市)への長期在陣を余儀なくされた(
長享2年(1488年)、義凞と改名する(「足利家官位記」)[3][19]。同年9月17日、24歳のとき、内大臣となる[19][3]。大将如元[3]。
同年、加賀一向一揆によって加賀国守護の富樫政親が討ち取られた。政親は長享・延徳の乱では幕府軍に従軍していたこともあり、義尚は蓮如に一揆に加わった者を破門するよう命じるが、細川政元にいさめられ、蓮如が一揆を叱責することで思いとどまった。文明17年(1485年)に京がある山城国で起きた山城国一揆についても、ただちに武力鎮圧しようとはせず、むしろ一定の権限を認めた。
六角征伐によって幕府権力は一時的に回復したものの、義尚は次第に酒色や文弱に溺れるようになって政治や軍事を顧みなくなった。また、長享2年(1488年)には寵愛する結城尚豊を近江守護に任じるなど、側近を重用してもっぱら政治を任せたため、幕府権力が専横される結果となった。その一方で、義尚の側近や奉公衆が近江の寺社本所領を兵粮料所にする名目で事実上の押領を行ったため、荘園領主らは父・義政による関与を求めるようになり、義尚にとっては幕府権限が自分のためにあるのを示す近江出兵が、結果的には義政の政治的発言力の復活を生み出すことになった[18]。
長享3年(1489年)3月26日、近江の陣中で死去した[3][20]。25歳[3][20](満23歳没)。法名は道治、道号は悦山[3]。常徳院殿と号す[3]。
死因は過度の酒色による脳溢血といわれるが、荒淫のためという説もある[21]。母の富子が応仁の乱の末に将軍職につけた義尚だったが、これといった政治的成果を出せず、両親に先立った死だった。翌年1月には父の義政も義尚の後を追うように死んだ。
義尚には継嗣が無かったため、従弟(義視の子)である足利義材(のちの義稙)が義政の養子となって(一説に義尚の養子になったともいわれる)、延徳2年(1490年)に10代将軍に就任した。
義尚時代 (1473年 - 1487年、※「尚」の読みは「ひさ」。)
(以上は水野、2014年、P.78による。)
義煕時代(1488年 - 1489年)
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