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2~3世紀に日本列島に存在したとされる国 ウィキペディアから
邪馬台国(やまたいこく/やまとこく、旧字体:邪󠄂馬臺國)は、『三国志』魏志倭人伝に伝わる3世紀ごろの倭の国。卑弥呼が治めていたことで知られており、台与などの女王を立ててきた国とされている。
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古くから大和国(やまとこく)の音訳として認知されていたが[注釈 1]、江戸時代に新井白石が通詞今村英生の発音する当時の中国語に基づき音読した[注釈 2] ことから「やまたいこく」の読み方が広まった。日本国内の史書には、邪馬台国や卑弥呼の存在は一切記載が無い。所在地について、今も議論が続いている。
中国の『三国志』における「魏志倭人伝」(『三国志』魏書東夷伝倭人条)では、卑弥呼は、約30の国からなる倭国の都としてここに住居していたとされている。
なお、現存する三国志の版本では「邪󠄂馬壹國」(新字体:邪馬壱国)と表記されているが、晩唐以降の写本で誤写が生じたものとするのが通説である(台の旧字体「臺」は壱の旧字体「壹」と似ているため)[要出典]。現代人の著作の多くは、それぞれ「壱」「台」で代用しているので、本項でも「邪馬台国」と表記する。
倭国は元々男王が治めていたが、国の成立(1世紀中頃か2世紀初頭)から70-80年後、倭国で長期間にわたる騒乱が起きた(倭国大乱の時期は2世紀後半)。そこで卑弥呼という巫女を王に共立することによって混乱が収まり、邪馬台国連合が成立した。弟が彼女を補佐して国を治めており、他に官として伊支馬、次に彌馬升、次に彌馬獲支、次に奴佳鞮を置いていた。戸数は七万余戸あったとされるが、誇張ないし伝聞に基づくものとする意見もある[要出典]。
女王は魏に使節を派遣し親魏倭王の封号を得た。もとから狗奴国とは対立しており、狗奴国との戦いがあった時期から間もなく248年頃に卑弥呼が死去し、男王が後継に立てられたが混乱を抑えることができず、卑弥呼宗女の「壹與」(壱与)または「臺與」(台与)が巫女女王になることで連合国が収まった。壱与女王は266年に晋の武帝に遣使、朝貢している。
なお、倭人伝中に出現する表記上は、「邪馬台国」は1回に過ぎず、「女王国」が5回を数える[注釈 3]。邪馬台国と後のヤマト王権の関係、邪馬台国の位置については諸説ある。一般的な読みは「やまたいこく」だが、本来の読みについても諸説がある。
以下は「魏志倭人伝」に記述された邪馬台国の概要である。
魏志倭人伝には、魏の領土で朝鮮半島北部ないし中部に当時あった郡[注釈 4] から邪馬台国に至る道程が記されている。
倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東到 其北岸狗邪韓國七千餘里
始度一海千餘里 至對海國 其大官曰卑狗副曰卑奴毋離所 居絶島方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴
又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗副曰卑奴毋離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食亦南北市糴
又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前 人好捕魚鰒 水無深淺皆沈没取之
東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
東南至奴國百里 官曰兕馬觚副曰卑奴毋離 有二萬餘戸
東行至不彌國百里 官曰多模副曰卑奴毋離 有千餘家
南至投馬國水行二十日 官曰彌彌副曰彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮 可七萬餘戸
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
次有斯馬國次有巳百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國 此女王境界所盡
其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里
(中略)
計其道里 當在會稽東冶之東
対海国、一大国、末廬国、伊都国、奴国、不彌国、投馬国、邪馬台国に関しては、「魏志倭人伝」に詳しい記述がある。位置については畿内説と九州説が有力とされる(#位置に関する論争を参照)。道程についても「連続説」と「放射説」がある(#論争を参照)。位置や道程の比定をめぐっては論争が起きてきた(#論争を参照)。
その他、斯馬国、百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国[注釈 5] があり、女王国の南には男王卑弥弓呼が治める狗奴国があり女王国と不和で戦争状態にあった。
女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國 黑齒國復在其東南 船行一年可至參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里
女王國から東に1,000里ほど海を渡ればまた倭種の国があることは、九州説を前提とすれば中国地方を、畿内説を前提とすれば東海地方や琵琶湖の対岸が倭種の国と想起される。その倭種の国からは南に、小人の国である侏儒国があると説明されている。それとは別にまた船行一年にて行ける所として裸国と黒歯国があった。倭地、女王国について説明があり、「倭地について參問(情報を収集)すると、海中の洲島の上に絶在していて、或いは絶え、或いは連なり、一周めぐるのに五千里ばかりである。」とある。
收租賦 有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之
租税や賦役の徴収が行われ、国々にはこれらを収める倉がつくられていた。また、国々には市場が開かれ、「大倭」[注釈 6] に交易を監督させていた。
自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國 皆臨津搜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯
女王国の北には特に一大率という官が置かれ、諸国を検察し、諸国は之を畏れていた。常に伊都国で治められており、中国でいう刺史[注釈 7] のようである。王が魏の都、帶方郡、韓の国々に使者を派遣する際や、郡の使者が倭国に来た際は、皆が津に臨んで調査、確認し、文書を伝送して贈物を女王に届けるので間違いは起こらなかった。
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國 自為王以來 少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛
倭国には元々は男王がいて、70-80年ほど在位したが、彼が崩御した後に倭国は乱れ、お互い何年も攻め合っていた[注釈 8] ので、一人の女子を共立し王とした。
名を卑弥呼といい、女王は鬼道を使い、能く人心を掌握し、既に高齢で、夫は持たず、弟が政治を補佐した。卑弥呼が王位と為ってからは、人は会見することが少なく、1,000人の女性が侍っていて、ただ一人の男子[注釈 9] が飲食の世話や取次ぎをしていた。宮室や楼観で起居し、険しい柵を設け、常に多数の兵士が守衛をしていた。
卑弥呼は呪術を司る巫女(シャーマン)であるとする見方がある[注釈 10] 一方、単に祭祀を行っていたとする見解[注釈 11] もある。
また、弟が政治を補佐したという記述から、巫女の卑弥呼が神事を司り、実際の統治は男子が行う二元政治(ヒメヒコ制)とする見方[要出典]もある[注釈 12]。
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與 年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹
卑弥呼の死去によって、大いに冢が作られ、直径が100歩ほど、奴婢100人あまりが殉葬された。その後男王が立てられたが、国中はこれに服さず更にお互いを誅殺し1,000人あまりが死んだ。再度、卑弥呼の親族で13歳の少女の壹與(臺與)を王と為し遂に国は定まった。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壹與を諭した。壹與も魏に大夫率の善中郎將掖邪狗など二十人の使者を送り、男女の奴隷30人、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹を朝貢した。「大作冢」とは大きいではなく大いに、又は多数の冢の意味である。
「魏志倭人伝」には、帯方郡を通じた邪馬台国と魏との交渉が記録されている。女王は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じ数度にわたって魏に使者を送り、皇帝から親魏倭王に任じられた。正始8年(248年)には、使者が狗奴国との紛争を報告しており、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。詳細は以下の通り。
また魏志倭人伝の記述によれば、朝鮮半島の国々とも使者を交換していたらしい。
この後、『日本書紀』の「神功皇后紀」所引の『晋起居注』(現存しない)に、泰初(泰始の誤り)2年(266年)に倭女王が使者を送り通訳を重ねて朝貢したとの記述がある。現存する『晋書』武帝紀にも泰始2年に倭人が朝貢したとあるので、(女王という記述は無いが)現在では、時代的に考えるとこの女王は神功皇后ではなく邪馬台国の壹與であり、新女王の壹與が魏に代って成立した晋の武帝(司馬炎)に朝貢したと考えられる。また『晋書』四夷伝によると武帝の父・文帝(司馬昭)が魏の政権にあった255年-265年に女王の使者が何度もやって来たが、泰始の初めには通訳を重ねた入貢があったという。宣帝(司馬懿)紀には240年「東倭」が通訳を重ねて納貢したともある。『日本書紀』の崇神天皇12年にも異俗の人々が「訳を重ねて」来たとあるが関連は不明である。
魏志倭人伝 には31の地名(「倭」を含む)と14の官名、そして8人の人名が出てくる。これら53の音訳語は日本列島で用いられた言語の最古の直接資料である。これら3世紀以前の邪馬台国の言語の特徴は上代日本語の特徴と同じであることが、森博達やBentleyらによって指摘されている[2][3]。その特徴とは
などである。こうした特徴が見出されることは現代日本語の基礎が邪馬台国時代にすでに形作られていたことを物語る。但し森博達は、8世紀国内資料から推定される発音と三世紀中国文書に示された地名、官名、人名の53語との連携は、不確実であることも示している。
魏志倭人伝に当時の倭人の風俗も記述されているが、2ヶ所に分けて書かれており、両者間には重複や矛盾がある。以下は便宜上その2ヶ所を区別せず列記する。
3世紀半ばの臺與の朝貢を最後にして、5世紀の義熙9年(413年)倭の五王(雄略天皇などヤマト王権の五天皇)の朝貢まで150年近く中国史書に倭、ないしは倭国に関する記録はない。この時期に、朝鮮半島の魏(または西晋)の植民地帯方郡の政情が不安定になり、のちに百済や高句麗に圧されて滅びたことの影響が考えられる[要出典]。臺與以後に邪馬台国連合が衰えて中国に朝貢する国力も無くなったためか、あるいは、東晋及び南朝諸国が南方に逼塞したため、地理事情の問題で容易に到達できなくなったためとも思われる[要出典]。いずれにしろ、このため日本の歴史で4世紀は「空白の世紀」と呼ばれた。
邪馬台国連合とヤマト王権との関係については諸説ある。
現存する『三国志(魏志倭人伝)』の版本では「邪馬壹國」と書かれている。『三国志』は晋の時代に陳寿(233-297)が編纂したものであるが、現存する刊本で最古のものは、12世紀の宋代の紹興本(紹興年間(1131年 - 1162年)刻版)と紹熙本(紹熙年間(1190年 - 1194年)刻版)である。一方、勅撰の類書でみると、宋代の『太平御覧』現存刊本は、成本時期が10世紀で現存の『三国志』刊本時期より古いが、『三国志』を引用した箇所をみると「邪馬臺国」の表記が用いられている。
『三国志』より後の5世紀の『後漢書』倭伝現存刊本では「邪馬臺国」、7世紀の『梁書』倭伝現存刊本では「祁馬臺国」、7世紀の『隋書』現存刊本では俀国について「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」(魏志にいう邪馬臺)、唐代の『北史』四夷伝現存刊本では「居于邪摩堆 則魏志所謂邪馬臺者也」となっている。これらの正史現存刊本は、用字が不安定であるが、現存の宋代の『三国志』より古い、不安定な諸写本を引用しているために不安定となっているものと推定される[要出典]。
新字体では、「壹」は壱か一にあたる文字(ただし通常は壱で代用する)であり、「臺」は台にあたる文字である。
表記のぶれをめぐっては、11世紀以前の史料の現存刊本に「壹」は見られないため、「壹」を「臺」の版を重ねた事による誤記とする説[要出典][注釈 14]のほか、「壹與遣,倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送,政等還。因詣臺,」から混同を避けるために書き分けたとする説[要出典]、魏の皇帝の居所を指す「臺」の文字を東の蛮人の国名には用いず「壹」を用いたとする説[要出典][注釈 15]などがある。
「邪馬臺」の後漢中国語(当時の発音) *ja-ma-də[4]
現在「邪馬台国」は一般に「やまたいこく」と読まれる。この「やまたいこく」という読みは、江戸時代に新井白石が通詞今村英生の発音する当時の中国語に基づいて音読したものであるため、魏志倭人伝の書かれた当時の発音を正しく表すものではない。上述の通り、当時の発音は"*jamadə"であったと推測され、これは仮名文字で表記すると「やまど」となる。しかし、当時の日本語では清音と濁音の区別がなくどちらも同じ音と認識していたため、当時の正しい発音は「やまと」となる。
「邪馬壹國」と「邪馬臺国」の表記のいずれも、発音の近さから「やまと」の宛字ではないかと類推する。これは、邪馬台国と同じく「魏志倭人伝」に登場する對海/対馬國を対馬,一大/一支國を壱岐,末廬國を肥前國松浦郡といったふうに発音の近さを手掛かりとしてあてはめるのと同様に、邪馬台国も発音から地名をあてはめようとするものである。新井白石が記した「古史通或問」や「外国之事調書」では、その場所を大和国や山門郡と説いていることから、白石は「邪馬台」を「やまと」に近い音と想定してその場所を比定したと考えられている[要出典]。
日本語の「ヤマ」は通常「山」を意味し、漢字では耶麻、耶馬などと表記されることがあるが、「邪馬台」の漢字も、九州の山と台地を表現したとする[要出典]。
日本における邪馬台国への言及は、『日本書紀』卷第九神功皇后摂政三九年、四十年および四十三年の注に「魏志」から引用[5] があり、神功皇后と卑弥呼を同一人物と見なした記述となっていることが嚆矢である[注釈 16]。
三十九年。是年也大歲己未。魏志云。明帝景初三年六月。倭女王遣大夫難斗米等。詣郡求詣天子朝獻。太守鄧夏遣吏將送詣京都也。四十年。魏志云。正始元年。遣建忠校尉梯携等。奉詔書印綬。詣倭國也。
四十三年。魏志云。正始四年。倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。—国史大系. 第1巻 日本書紀 p.172(国立国会図書館)
古くは邪馬台国は大和の音訳として受け容れられていたとの説があり[要出典]、であれば、この論争が始まったのは江戸時代中期ないしは後期となる[独自研究?]。新井白石は「古史通或問」において、奈良に存在する大和国説を説いたが、後に著した「外国之事調書」では筑後国山門郡説を説いた[要出典]。その後、国学者の本居宣長は「卑弥呼は神功皇后、邪馬台国は大和国」としながらも「日本の天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならない」という立場から、「馭戎概言」において、九州の熊襲による偽僭説を提唱した。大和朝廷(邪馬台国)とはまったく別でつながることはない王国を想定し、筑紫(九州)にあった小国で神功皇后(卑弥呼)の名を騙った熊襲の女酋長であるとするものである[要出典]。これ以来、政治的意図やナショナリズム、地元愛などを絡めながら、学界はもちろん在野研究者を巻き込んだ論争が現在[いつ?]も続いており、一般にもよく知られた古代史論争である[独自研究?]。
「魏志倭人伝」の行程の距離と方角に追従すると、邪馬台国は太平洋の真ん中に行きつくとするとの説が、古くから知られている[6]。ゆえに、白石も宣長も、原史料に対してさまざまな読み替えや注釈を入れてきた。江戸時代から現在まで学界の主流は「九州説」(白鳥庫吉ら)と「畿内説」(内藤湖南ら)の二説に大きく分かれている。ただし九州説には、邪馬台国が“畿内に移動してヤマト政権となった”とする説(「東遷説」)と、邪馬台国の勢力は“畿内で成立したヤマト政権に滅ぼされた”とする説[7]がある。
邪馬台国は魏志倭人伝にあるように卑弥呼が魏に朝貢した景初3年(239年)(魏志 景初2年(238年))に加え『日本書紀』所引の「晋起居註」に倭女王が晋に泰始2年(266年)に遣使し朝貢したとあることから、3世紀中期に存在したことが確かである。畿内説に立てば、3世紀の日本に大和から大陸に至る交通路を確保できた勢力が存在したことになり、九州説に立てば九州に存在した「邪馬台国」からヤマトに政権が移ったことになる[独自研究?]。
2009年に奈良県の纒向遺跡から大型建物の遺物が見つかったことで考古学界では畿内説が優勢と評されており、対する九州説や東遷説は吉野ヶ里遺跡に期待するなどして巻き返しを図っている[8][9][10]。
「魏志倭人伝」の距離(里数)が大雑把に約5倍に誇張されているように見えるという問題[要出典]については、後述するように短里が使用されていたとする説、当時は兵力などを10倍に誇大に記載する例があったことから、公孫氏を討伐する魏軍が帯方郡を接収した当時の軍事報告に基づいたためという説[12]、魏が呉を地理上挟み撃ちにできるとして威圧する目的で、実際より南の呉の近くにあるように見せかけるため書き換えたという説[13]、曹爽の功績である西域の「親魏大月氏王」の距離と、曹爽の政敵の司馬懿の功績である東夷の親魏倭王の距離の東西のバランスをとるため誇張したという説[注釈 17][要出典]、などがある。
宮崎康平は、道程に関して「古代の海岸線は現代とは異なることを想起しなければならない」と指摘し、現在の海岸線で議論を行っていた当時の学界に一石を投じた[要出典]。しかし、古代の海岸線を元に考察しても、連続説あるいは放射説の根本部分に大きな影響を与えるほどの学説ではない[要出典]ことから現在[いつ?]ではこの点は課題ではないとされている[要出典]。
また「自郡至女王國萬二千餘里」の記述は、行程に関する重要な一文であるにもかかわらず、多くの説において無視されていると見受けられる[独自研究?]。
古代中国における「里」の距離は次の通り時代ごとに微妙に異なる[要出典]。
距離問題については「短里」の概念が提示されている。「短里」とは尺貫法の1里が約434mではなく75-90m程(観念上は76-77m)とする説である。魏志倭人伝では狗邪韓國から對海國(対馬)までが千里、對海國から一大國(壱岐)までが千里とあるが、地図上の「実距離」はそれぞれ約70kmであり、短里が採用されていたことを裏付けている[要出典]。
邪馬台国畿内説では、奈良県桜井市三輪山近くの纏向遺跡を邪馬台国に比定する意見が多くを占める。他に少数意見として、琵琶湖湖畔、大阪府などに比定する説もある。
逆に、畿内説の弱点として上げられるのは次の点である。
邪馬台国九州説では、福岡県の糸島市を中心とした北部九州広域説、筑後平野説、福岡県の大宰府(太宰府市)、大分県の宇佐神宮(宇佐市)、宮崎県の西都原古墳群(西都市)など、ほとんど九州の全域に渡って諸説が乱立している。その後の邪馬台国については、畿内勢力に征服されたという説[要出典]と、逆に東遷して畿内を制圧した[要出典]との両説がある[注釈 18]。
邪馬台国が九州にあったとする説は、以下の理由等による。
逆に、九州説の弱点として上げられるのは次の点である。
九州で成立した王朝(邪馬台国)が東遷して畿内に移動したという説。東遷説には、この東遷を神武東征や天孫降臨などの神話にむすびつける説[要出典]と、特に記紀神話とは関係ないとする説[要出典]の両パターンがある。東遷した時期や形態についても多くの説がある。
古くは明時代の鄭舜功が指摘し[19] 、白鳥庫吉、和辻哲郎[20]を先駆けとして戦前に広まった[要出典]が、戦後は、歴史学および歴史教育の場から日本神話を資料として扱うことは忌避された。しかしこの東遷説は戦後も主に東京大学を中心に支持された[21]。
久米雅雄は「二王朝並立論」を提唱し、「自郡至女王国萬二千餘里」の「筑紫女王国(主都)」と「海路三十日」(「南至投馬国水行二十日」を経て「南至邪馬台国水行十日」してたどり着く)の「畿内邪馬台国(副都)」とを想定し両者は別の「相異なる二国」であり、筑紫にあった女王国が「倭国大乱」を通じて畿内に主都を遷しそこで卑弥呼が擁立されたのであるとした[22]。この説では卑弥呼も壹與も畿内にいたということになる。
大和岩雄は九州にあった女王国とは「畿内をも含む倭国全体の首都」であって、卑弥呼の死後、畿内の邪馬台国へ東遷して女王壹與を擁立したが、それは倭国の勢力圏の内部での移動にすぎないとした(ただし天岩戸や天孫降臨や神武東征などの神話と関係づけることはしていない)。この説では卑弥呼は九州に、壹與は畿内にいたということになる[要出典]。
安本美典は「卑弥呼=天照大神」「壹與=万幡豊秋津師比賣(忍穂耳の妃)」だと同定した上で、その子孫である神武天皇が東遷してヤマト政権になったのであるとした。この説では卑弥呼も壹與も九州にいたということになる[要出典]。
日本列島において初めに淡路穂狭別島(淡路島)、二番目に伊予二名島(四国)が誕生したとされる日本神話の国生みに基づく説[要出典]で、1970年代後半より注目された[要出典]ものである。邪馬台国までの行き方(道順)を表しているとされる「魏志倭人伝」(「南至投馬国水行二十日」を経て「南至邪馬台国水行十日」してたどり着く)の解釈として、まず大陸から渡り着いたとされる九州北部から水路で豊後水道を南下、高知県西部より四国へ上陸、その後は畿内説と同じく南を東と読みかえて陸路で徳島県に辿り着くとの見解が示される事も多い[要出典]。
古代日本の王権、すなわち「大和朝廷の前身としての邪馬台国」は阿波で成立し、710年(和銅3年)に初めて奈良の平城京に遷都した、と解するのが阿波説である。徳島県鳴門市大麻町の西山谷2号古墳が、奈良盆地の初期王墓とされる「箸墓古墳」など巨大前方後円墳のルーツであること、鳴門市大麻町の萩原1号古墳、萩原2号古墳が箸墓古墳より古く、奈良で最古級の古墳とされるホケノ山古墳のルーツであること、3世紀以降、阿波吉野川南岸産の結晶片岩が近畿地方に運ばれて多くの主要古墳の石材として使用されていること、3世紀に鮎喰川流域で製作された阿波の土器が近畿の多くの遺跡から出土していること、阿波の矢野遺跡(徳島県徳島市国府町矢野)を中心とする、少なくとも数万人が居住できる弥生時代の大集落遺跡群(庄遺跡、南庄遺跡、鮎喰遺跡、名東遺跡、矢野遺跡、石井城ノ内遺跡、井ノ元遺跡、清成遺跡など約8kmx約4km)が存在すること、魏志倭人伝に『其山有丹』(その山に丹有り)と記述されている、3世紀の丹(水銀朱:辰砂(硫化水銀))採掘遺跡が全国唯一若杉山遺跡(徳島県阿南市水井町)にあること、加茂宮ノ前遺跡(徳島県阿南市加茂町)などから鉄器製作のための国内最古級の鍛冶炉を備えた竪穴建物が見つかっていること、などが主な論拠である[25]。
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