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2000年にレバノンで開催された第12回AFCアジアカップ ウィキペディアから
AFCアジアカップ2000は、2000年10月12日から同年10月29日にかけて、レバノンで開催された第12回のAFCアジアカップである。
開催国のレバノンおよび前回UAE大会で優勝したサウジアラビアに、予選を勝ち抜いた10チームを加えた合計12チームで争われた。当時AFCに所属していた中でこの大会 (予選を含む)に参加しなかった国はアフガニスタンのみで、アジアカップ史上最多の44の国・地域が参加した。
開催地はレバノンの首都ベイルートおよびトリポリ、サイダの3ヶ所であった。特に東アジア諸国から見るとレバノンは内戦の地というイメージが強かったが、競技場はよく整備され、大会期間中に大きな治安上の問題もなかった。
日本が地元開催の1992年大会以来2度目の優勝を果たし、“中東の笛”などアウェイ色の濃い中東開催のアジアカップで、東アジア勢として初めて制することとなった。
日本は、本大会直前まで開催されベスト8という成績を残したシドニーオリンピックに出場したメンバーと、1998 FIFAワールドカップに出場したメンバーを融合させたチームでこの大会に臨んだ。グループリーグを2勝1分の1位で突破すると、準々決勝でイラクに、準決勝で中国にいずれも逆転勝ちを収めて2大会ぶりに決勝進出を果たし、決勝で前回王者サウジアラビアを1-0で下した。前年よりも選手層の厚くなったASローマ (イタリア)でのレギュラー争いを優先したいという中田英寿を招集辞退で欠いていたものの、グループリーグおよび決勝トーナメントの全6試合で21得点をマークする[1]など、他を圧倒する内容で勝ち進んだ日本は、アジアサッカー連盟 (AFC)の事務所に飾られている本大会優勝のレリーフに「史上最強のチャンピオン」と記されるなど、大会史上に残る屈指の好チームと呼べた。この頃のA代表が日本代表史上最強のチームだったのではないかという声も大きく[2]、準々決勝 (イラク戦)で見せた中村俊輔が真横に蹴ったFKを、名波浩がダイレクトボレーで合わせて決めたゴールは大きな印象を残した。
1999年8月から2000年4月にかけて、42国と地域が参加。10組に分かれて開催され、各組1位が本大会の出場権を得た。
準々決勝 | 準決勝 | 決勝 | ||||||||
10月23日 – サイダ | ||||||||||
中国 | 3 | |||||||||
10月26日 – ベイルート | ||||||||||
カタール | 1 | |||||||||
中国 | 2 | |||||||||
10月24日 – ベイルート | ||||||||||
日本 | 3 | |||||||||
日本 | 4 | |||||||||
10月29日 – ベイルート | ||||||||||
イラク | 1 | |||||||||
日本 | 1 | |||||||||
10月23日 – トリポリ | ||||||||||
サウジアラビア | 0 | |||||||||
イラン | 1 | |||||||||
10月26日 – ベイルート | ||||||||||
韓国 | 2(GG) | |||||||||
韓国 | 1 | |||||||||
10月24日 – ベイルート | ||||||||||
サウジアラビア | 2 | 3位決定戦 | ||||||||
クウェート | 2 | |||||||||
10月29日 – ベイルート | ||||||||||
サウジアラビア | 3(GG) | |||||||||
中国 | 0 | |||||||||
韓国 | 1 | |||||||||
AFCアジアカップ2000優勝国 |
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日本 2大会ぶり2度目 |
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