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エルストン・ハワード
アメリカ合衆国の野球選手 (1929-1980) ウィキペディアから
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エルストン・ジーン・ハワード(Elston Gene Howard, 1929年2月23日 - 1980年12月14日)は、アメリカ合衆国ミズーリ州セントルイス出身のプロ野球選手(捕手)。右投右打。
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経歴
要約
視点
出生からニグロリーグ時代
ハワードは1929年2月23日にミズーリ州セントルイスで生まれる。6歳の時に両親が離婚、母方で育てられることになるが、その後セントルイスのヴァシュオン高等学校に入学する。
1948年 、19歳のハワードは500ドルの契約金でニグロ・リーグの名門でバック・オニール率いるカンザスシティ・モナークスと契約を結びプロ野球選手としてスタートする。モナークス在籍時、ハワードは外野手として力をつけるほか、チームメイトにはのちにシカゴ・カブスで活躍するアーニー・バンクスも在籍し、ハワードとルームメイトだった。
マイナーリーグ時代
1950年、ニューヨーク・ヤンキースのスカウトに見出されて契約を結び、ヤンキース傘下のマイナーチームでプレイするが、翌1951年から1952年まで、兵役で陸軍に従軍したため、現役を中断。 1953年に兵役より復帰し、この年より捕手にコンバートされ、2年間AAA級のマイナーチームでプレイする。
ニューヨーク・ヤンキース時代
1955年4月14日に左翼手としてメジャーデビューを果たし、ヤンキース初のアフリカ系アメリカ人野球選手となった[1]。デビュー年は97試合出場で、打率.290、10本塁打、43打点をマークしたが、ハワードのポジションについてはケーシー・ステンゲル監督も悩み、当時は正捕手にヨギ・ベラがおり、外野もミッキー・マントルやハンク・バウアーがいたため、ハワードは控え捕手・外野手としての出場が多かった。
1960年代より、ベラから正捕手を譲られる形で、ヤンキースの正捕手として多く出場するようになる。ワールドシリーズでの豪打も健在だった。 1963年はキャリアハイのシーズンで、打率.287、28本塁打、85打点の成績でアメリカンリーグのアフリカ系アメリカ人として初のMVPに選出され[1]また、初のゴールドグラブ賞も受賞した。
またオールスターには1957年から9年連続で選出された。
ボストン・レッドソックス時代・引退
1960年代半ばからハワードも衰えが見え、打率も2割5分台となり、1967年8月3日にボストン・レッドソックスへトレードで移籍、しかし、同年の打率は1割台だったというが、それでも同年のワールドシリーズに出場し本塁打を放ったのが最後の輝きだった。翌1968年シーズンを最後に現役を引退した。
引退後
引退後は古巣・ヤンキースで一塁ベースコーチ(1969年 - 1976年, 1978年)、ベンチコーチ(1977年)を務めた。特に、1977年6月に起きた対レッドソックス戦でのビリー・マーチン監督とレジー・ジャクソンの選手交代で起きた大喧嘩では、同じくコーチとなっていたヨギ・ベラと共にハワードは懸命な仲裁を行った。
晩年は心臓病に見舞われ、1980年12月14日、心筋炎のためニューヨークの病院で死去[2]。まだ51歳だった。

ニューヨーク・ヤンキースの永久欠番に1984年指定。
死後、1981年シーズンのヤンキースは1年通してハワードの喪章をつけてプレイし、その3年後の1984年7月21日、ヤンキースはハワードの在籍時の背番号『32』を永久欠番に指定した[3]。
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年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
表彰
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脚注
外部リンク
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