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ジェローム・ウィリアムズ
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ジェローム・リー・ウィリアムズ(Jerome Lee Williams, 1981年12月4日 - )は、アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島ホノルル出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。
台湾球界での登録名は、威廉。
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経歴
要約
視点
プロ入りとジャイアンツ時代
1999年のMLBドラフト1巡目(全体39位)でサンフランシスコ・ジャイアンツに指名され、7月10日に契約。A-級セーラムカイザー・ボルケイノーズで7試合に登板し、1勝1敗・防御率2.19だった。
2000年はA+級サンノゼ・ジャイアンツで23試合に登板し、7勝6敗・防御率2.94だった。
2001年はAA級シュリーブポート・スワンプドラゴンズで23試合に登板し、9勝7敗・防御率3.95だった。
2002年はAAA級フレズノ・グリズリーズで28試合に登板し、6勝11敗・防御率3.59だった。オフの11月20日にジャイアンツとメジャー契約を結び[1]、40人枠入りした。
2003年3月12日にAAA級フレズノへ異動し、そのまま開幕を迎えた。4月25日にメジャーへ昇格し、4月26日のフィラデルフィア・フィリーズ戦で先発起用されメジャーデビュー。ハワイ出身では史上27人目だった。4回5安打5失点5四球の乱調でメジャー初黒星を喫した[2]。試合後にAAA級フレズノへ降格。6月3日に再昇格した[3]。6月21日のオークランド・アスレチックス戦では、6.1回を4安打3失点に抑え、メジャー初勝利を挙げた[4]。6月27日のアスレチックス戦では7安打無失点の初完封を記録した[5]。その後は先発ローテーションに定着。この年は21試合に登板し、7勝5敗・防御率3.30だった。
2004年3月5日にジャイアンツと1年契約に合意し[6]、開幕ロースター入りした。開幕後は21試合に登板したが、7月31日に上腕三頭筋の故障で15日間の故障者リスト入りした[7]。9月16日に復帰し[8]、復帰後は1試合に登板した。この年は22試合に登板し、10勝7敗・防御率4.24だった。

(2005年)
2005年3月1日にジャイアンツと1年契約に合意し[9]、開幕ロースター入りした。開幕後は4試合に登板したが、0勝2敗・防御率6.48と結果を残せず、4月25日にAAA級フレズノへ降格した[10]。降格後はAAA級フレズノで6試合に登板し、1勝4敗・防御率9.39だった。
カブス時代
2005年5月28日にラトロイ・ホーキンスとのトレードで、デビッド・アーズマと共にシカゴ・カブスへ移籍した[11]。移籍後はAAA級アイオワ・カブスで4試合に登板し、6月21日にメジャーへ昇格[12]。カブスでは18試合に登板し、6勝8敗・防御率3.91だった。
2006年3月3日にカブスと1年契約に合意し、開幕ロースター入りした。開幕後は5試合に登板したが、0勝2敗・防御率7.30と活躍できず、4月21日にAAA級アイオワへ降格した。降格後はAAA級アイオワで29試合に登板したが、メジャーへ昇格することはなかった。9月5日にウェーバーでアスレチックスへ移籍した[13]が、オフの12月12日にノンテンダーFAとなった。
ナショナルズ時代
2007年1月12日にワシントン・ナショナルズと50万ドルの1年契約を結んだ[14][15]。開幕後の4月28日のニューヨーク・メッツ戦で左足首を捻挫したため、4月29日に15日間の故障者リスト入りし[16]、5月15日に復帰[17]。同日のアトランタ・ブレーブス戦に登板したが、16日に右肩の故障で再び15日間の故障者リスト入りした[18]。6月20日に故障者リストから外れたが、翌21日に40人枠を外れ、AA級ハリスバーグ・セネターズへ降格した[19]。この年は6試合に登板し、0勝5敗・防御率7.20だった。8月5日に放出された。
ツインズ傘下時代
2007年8月9日にミネソタ・ツインズとマイナー契約を結んだ。契約後はAAA級ロチェスター・レッドウイングスで8試合に登板し、0勝1敗1セーブ・防御率9.00だった。オフの10月29日にFAとなった。
ドジャース傘下時代
2008年はゴールデンベースボールリーグのロングビーチ・アーマダに加入し、6試合に登板。3勝2敗・防御率4.95だった。6月24日にロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結んだ。A+級インランド・エンパイア・シックスティシクサーズとAAA級ラスベガス・フィフティワンズでプレー。AAA級ラスベガスでは10試合に登板し、2勝2敗・防御率2.08だった。オフの11月3日にFAとなった。
アスレチックス傘下時代
2008年12月8日にアスレチックスとマイナー契約を結んだ。
2009年はAAA級サクラメント・リバーキャッツで27試合に登板し、5勝6敗・防御率5.58だった。オフの11月9日にFAとなった。
台湾球界時代
2010年は中華職業棒球大聯盟(CPBL)の統一セブンイレブン・ライオンズでプレー。先発・中継ぎ・抑えと、様々な場面で起用された。
独立リーグ時代
2011年はアトランティックリーグのランカスター・バーンストーマーズでプレー。8試合に登板し、6勝0敗・防御率2.91だった。
エンゼルス時代

(2012年6月27日)
2011年6月15日にロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイムとマイナー契約を結んだ。AAA級ソルトレイク・ビーズで11試合に登板。7勝2敗・防御率3.91の成績で、8月17日にエンゼルスとメジャー契約を結んだ[20]。同日のテキサス・レンジャーズ戦で4年ぶりのメジャー登板を果たした[21]。この年は10試合に登板し、4勝0敗・防御率3.68だった。オフの12月12日にエンゼルスと82万ドルの1年契約に合意した[22]。
2012年4月4日に左ハムストリングの故障で、15日間の故障者リスト入りした[23]。4月14日に復帰し[24]、13試合に登板したが、6月18日のジャイアンツ戦に登板後、呼吸困難となり病院へ運ばれ、20日に15日間の故障者リスト入りした[25]。7月13日に復帰[26]。この年は32試合に登板し、6勝8敗1セーブ・防御率4.58だった。
2013年1月15日にエンゼルスと200万ドルの1年契約に合意し[27]、開幕ロースター入りした。この年は自己最多の37試合に登板し、9勝10敗・防御率4.57だった。オフの12月2日にノンテンダーFAとなった[28]。
アストロズ時代

(2014年4月20日)
2014年2月6日にヒューストン・アストロズと210万ドル+出来高100万ドルの1年契約を結んだ[29][30]。開幕後はリリーフとして26試合に登板したが、1勝4敗・防御率6.04と結果を残せず、7月1日にDFAとなった[31]。7月8日に放出された。
レンジャーズ時代
2014年7月11日にテキサス・レンジャーズとマイナー契約を結んだ[32]。AAA級ラウンドロック・エクスプレスで2試合に登板し、7月25日にレンジャーズとメジャー契約を結んだ[33]。昇格後は2試合に登板し、1勝1敗・防御率9.90の成績で、8月8日にDFAとなった[34]。
フィリーズ時代
2014年8月10日にウェイバーを経てフィリーズとメジャー契約を結んだ[35]。9月20日のアスレチックス戦で勝利投手となり、この年在籍したアストロズとレンジャースに続き、1900年以降では史上初の1シーズンで3球団で同じチームから勝利投手となっている[36]。フィリーズでは9試合に先発登板し、4勝2敗・防御率2.83・WHIP1.13と好投した。通年の成績は、37試合中11試合に先発登板し、6勝7敗・防御率4.77・115.0イニングで36四球・82奪三振という内容だった。
2015年、主に先発で投げ、33試合中21試合に先発した。ピッチングは芳しくなく、防御率5.80・WHIP1.61と打ち込まれて4勝12敗と、大きく負け越した。なお、同年は通算50勝と3シーズンぶりのセーブも記録した。オフの11月2日にFAとなった[37]。
カージナルス時代
2016年6月2日にセントルイス・カージナルスとマイナー契約を結び、翌3日にAAA級メンフィス・レッドバーズへ配属された。7月25日にメジャー契約を結んで25人枠入りした。カージナルスでは11試合に登板して0勝0敗・防御率5.71・8奪三振の成績を残した。オフの11月3日にFAとなった[38]。
独立リーグ復帰
2017年5月12日に独立リーグ・アトランティックリーグのサマセット・ペイトリオッツと契約。
メキシカンリーグ時代
2018年5月9日にメキシカンリーグのモンクローバ・スティーラーズと契約。同年の12月10日に引退を表明した。
引退後
2021年2月8日にニューヨーク・メッツの傘下A-級セントルーシー・メッツの投手コーチに就任したことが発表された[39] 。
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詳細情報
年度別投手成績
年度別守備成績
- 各年度の太字はリーグ最高
背番号
- 59(2003年)
- 57(2004年 - 2005年、2011年 - 2013年)
- 32(2005年 - 2006年)
- 26(2007年)
- 30(2010年)
- 36(2014年 - 同年途中)
- 44(2014年途中 - 同年途中)
- 31(2014年途中 - 2015年)
- 38(2016年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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