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セスク・ファブレガス
スペインのサッカー選手 ウィキペディアから
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セスク・ファブレガス(Cesc Fàbregas)ことフランセスク・ファブレガス・ソレール(Francesc Fàbregas Soler, 1987年5月4日 - )は、スペイン・カタルーニャ州アレニズ・ダ・マール出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。現在はコモ1907の監督を務めている。現役時代のポジションはミッドフィールダー、フォワード。愛称は「セスク (Cesc) 」。
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クラブ経歴
要約
視点
バルセロナ
FCバルセロナのカンテラで育つ。ここでリオネル・メッシやジェラール・ピケらと共にプレーした。2003年のU-17世界選手権にU-17スペイン代表の一員として出場し準優勝を果たす。自身も5ゴールを挙げて得点王となると共に、大会最優秀選手に選出された。FCバルセロナでも才能は認められていたものの、トップチームにはシャビ・エルナンデスやイニエスタなどの同ポジションの選手がいたため、大会後間もなく才能に惚れ込んだアーセン・ヴェンゲル率いるアーセナルがスペイン、イングランドの労働法の隙間やFCバルセロナの会長選という期間を狙って移籍金なしで獲得した。その後、裁判所からFCバルセロナへの85万7000ユーロの支払い命令が下った。
アーセナル

パトリック・ヴィエラの放出に伴いチームの舵取りを委ねられた2005-06シーズンには、シーズン当初は経験不足を感じさせるプレーも多かったものの、シーズンが深まるにつれて調子を上げ、それにつれチームも波に乗っていった。UEFAチャンピオンズリーグのユヴェントス戦ではゲームを支配し、自ら先制点を奪う活躍を見せてチームの勝利を演出。前任者ヴィエラの眼前でその穴を埋めたことを示してみせた。
2006-2007シーズンより、ヴィエラが背負っていた背番号4番を受け継ぐことになった。シーズンオフより移籍の噂が絶えなかったが、新たにアーセナルと8年契約を結んだ。また2007年1月に発表された「2006年UEFA.comユーザーが選ぶベストイレブン」に、唯一10代で選ばれた。また、同シーズンはプレミアリーグでアシストランキング1位となった。
2008年11月29日のFCディナモ・キーウ戦からはウィリアム・ギャラスに代わってキャプテンを任されている。アーセナルではトニー・アダムスに次ぐクラブ史上2番目の若さとなるキャプテン就任となった。
バルセロナ

2011年8月15日、ユース時代に所属していたFCバルセロナへ5年契約で移籍。移籍金は最大3900万ユーロ(約43億円)といわれる。背番号はアーセナル時代から愛着のある4番。開幕から、本来のポジションとは違うセンターフォワードを任されながらも、3試合連続ゴール。しかし、10月初めの練習中に負傷。3週間の離脱を余儀なくされた[2]。しかし、復帰後も離脱前と変わらない活躍を見せる。12月10日のレアル・マドリードとのクラシコでは、素早いカウンターからダニエウ・アウヴェスのピンポイントクロスをダイビングヘッドで押し込み、試合を決定づける3点目を決めた。12月18日に日本で開催されたFIFAクラブワールドカップ決勝でも混戦の中からこぼれ球を押しこみ3点目をマークしている。この時、カメラに向かって指を7本立てるパフォーマンスを披露し、準決勝のアル・サッド戦で左足脛骨を骨折し戦線離脱したチームメイトのダビド・ビジャ(背番号7)にゴールを捧げた。
チェルシー

2014年6月13日に古巣アーセナルのライバルであるチェルシーFCへの移籍が発表された。背番号はアーセナル、バルセロナ時代に続き4番となった。開幕戦からボランチとしてレギュラーに定着すると、ともにリーグ最多の18アシスト、2,236本のパス成功を記録[3]。移籍初年度からプレミアリーグの優勝を飾った。
2016年12月31日のストーク戦にてプレミアリーグでの100アシストを達成した[4]。 これにより、セスクはライアン・ギグスの367試合よりも約70試合少ない293試合で100アシストを達成した選手となり、2018年にこの記録はギネス世界記録に認定された。なお、セスクは2017年にリヴァプールやトッテナムで活躍したジェイミー・レドナップ氏とともに「2人組で30秒間ボレーパス」に挑戦してギネス世界記録(15回)を獲得している[5]。
2017年2月4日には古巣のアーセナル相手に得点した一方、セレブレーションは控えた。25日のスウォンジー戦でプレミアリーグ300試合出場を達成、またこの時点で、プレミアリーグでのアシスト数102回で歴代リーグ2位タイに並んだ(もう一人はフランク・ランパード)[6]。
モナコ
2019年1月11日、元同僚のティエリ・アンリ監督率いるASモナコに2022年6月までの3年半契約で移籍[7]。2月2日のトゥールーズFC戦にて移籍後リーグ戦初ゴールを決めた[8]。
コモ
2022年8月1日、セリエBのコモ1907に移籍した[9]。2023年7月1日、サッカー選手として現役を引退することを発表。同時に、引退後はコモのBチームとU-19チームの監督に就任することも発表された[10]。2023年11月13日監督を務めていたモレノ・ロンゴ氏が解任されたため暫定監督に就任した。
2024年7月19日、コモの監督に就任すると発表された[11]。前シーズンまではライセンスを保持していなかったため、オシアン・ロバーツ監督の元でアシスタントコーチを務めていたが、実質的な監督としてセリエA昇格を決めていた[12]。
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代表経歴
2006年3月1日にバリャドリードで行われたコートジボワール戦でスペイン代表デビュー。1アシストを記録した。代表デビュー以降、リオネル・メッシ(2005年のFIFAワールドユース選手権準々決勝で対戦)と同い年のティーンエイジャーという話題性も手伝って、「超新星」などと称してマスメディアに取り上げられ、2006年ワールドカップドイツ大会にも出場を果たした。また、EURO2008でのスペイン代表では10番を背負い、その中盤はシャビ・エルナンデス、アンドレス・イニエスタ、ダビド・シルバらと共に「クアトロ・フゴーネス(4人の創造者たち)」と称された。
EURO2008本大会グループステージ1戦目のロシア戦で、代表初ゴール。シャビやマルコス・セナの控えとして臨んだ大会であったが、スーパーサブとして活躍。準々決勝のイタリア戦のPK戦では5人目のキッカーを務め、「15歳の時からまともにPKを蹴ったことがない(本人談)」にも関わらず、イタリアのGKジャンルイジ・ブッフォンの動きを読み、落ち着いて沈め、スペインの勝利を決めた。準決勝のロシア戦では、セルヒオ・ラモスからのグラウンダーのパスを、柔らかいタッチでふわりと浮かせ、前方へ走り込むダニエル・グイサの胸にピタリと合わせ、ゴールを演出。さらに、左サイドに空いたスペースでイニエスタからのパスを受けると、相手守備陣が戻り切れていないゴール前に走り込むシルバへ低い弾道の正確なセンタリングを送り、これをシルバが落ち着いてゴール左隅に決めた。これら2アシストを含む4アシスト(大会最多)を記録するなど、スペインの優勝に貢献した。
2010年のワールドカップでもスーパーサブとして臨み、主に膠着状態を打破するために途中出場した。決勝戦のオランダ戦では80分から投入され、延長後半のイニエスタの決勝点をアシストするなど活躍した。
2014 FIFAワールドカップでは、グループリーグ第1戦のオランダ戦、第3戦のオーストラリア戦にそれぞれ途中出場したのみとなり、チームもグループリーグ敗退という結果に終わった[13][14]。
2015年10月12日のUEFA EURO 2016予選、ウクライナ戦で代表通算100試合出場を達成した[15]。
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エピソード

- マイケル・ジャクソンのファンである[16]。
- 利き足は右足だが、利き手は左手である。
- カルレス・プジョルやバルセロナのカンテラで同期だったジェラール・ピケとは仲がいい。また、シャビ・エルナンデスは彼を「未来型フットボーラーのプロトタイプ」と表現している。
- ユニホームに「セスク」ではなく「ファブレガス」とネームを入れた理由について、プレミアリーグでは姓を入れる規定があったことを挙げている。[要出典]また、スペイン代表では当初の「セスク」から「ファブレガス」に変更した後、チームはユーロ2008、2010 FIFAワールドカップを制覇している。このことから本人は「本当はセスクの名でユニホームを作りたかったけど、ファブレガスの方が運を運んでくれるのなら、この名前でより多くのタイトルを獲得したい」と語っている。
- 2013年4月10日に行われたUEFAチャンピオンズリーグ準々決勝のパリ・サンジェルマンFCとの試合中に、第一子となる女児が生まれた[17]。
- 2014年9月23日に実母が第三子となる女児を出産、セスクにとって27歳年下の妹が誕生した[18]。
- スペイン代表ではこれまで試合中に4回PKを蹴っているが、4回全てで失敗している[15]。4度のPK失敗は14回中5回失敗したダビド・ビジャに次ぎ、スペイン代表史上2番目の記録である。ただし先述のEURO 2008の準々決勝イタリア戦、EURO 2012の準決勝ポルトガル戦でのPK戦ではそれぞれ成功させている。
- 2017年5月、ESPNは世界で最も有名なアスリート100人を発表し、54位に選出された。サッカー選手としては21位[19]。
- 2020年11月、カタルーニャのラジオ番組のインタビューで、チェルシー時代の監督ジョゼ・モウリーニョを絶賛する一方で、バルセロナ時代の監督ジョゼップ・グアルディオラとは 「上手くいっていなかった」 ことを明かした[20]。
個人成績
クラブでの成績
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代表歴
出場大会
- U-17スペイン代表
- 2004年 - UEFA U-17欧州選手権2004 (準優勝)
- スペイン代表
- 2006年 - 2006 FIFAワールドカップ (ベスト16)
- 2008年 - UEFA EURO 2008 (優勝)
- 2009年 - FIFAコンフェデレーションズカップ2009 (3位)
- 2010年 - 2010 FIFAワールドカップ (優勝)
- 2012年 - UEFA EURO 2012 (優勝)
- 2013年 - FIFAコンフェデレーションズカップ2013 (準優勝)
- 2014年 - 2014 FIFAワールドカップ (グループリーグ敗退)
- 2016年 - UEFA EURO 2016(ベスト16)
試合数
- 国際Aマッチ 110試合 15得点(2006年-2016年)[21]
得点
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タイトル
クラブ

- FAカップ:1回 (2004-05)
- FAコミュニティ・シールド:1回 (2004)
- リーガ・エスパニョーラ:1回 (2012-13)
- コパ・デル・レイ:1回 (2011-12)
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ:2回 (2011, 2013)
- UEFAスーパーカップ:1回 (2011)
- FIFAクラブワールドカップ:1回 (2011)
代表
- FIFAワールドカップ:1回 (2010)
- UEFA欧州選手権:2回 (2008, 2012)
個人
- 2003年U-17世界選手権 - 得点王(5得点)・最優秀選手
- PFA年間最優秀若手選手賞 2007-2008
- UEFA EURO 2008 - 優秀選手
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脚注
関連項目
外部リンク
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