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ディック・グロート
アメリカの野球、バスケットボール選手 (1930 - 2023) ウィキペディアから
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リチャード・モロー・グロート(Richard Morrow "Dick" Groat, 1930年11月4日 - 2023年4月27日[1])は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州ウィルキンスバーグ出身のプロ野球選手(遊撃手)・元プロバスケットボール選手。右投右打。
MLBとNBAの両方でのプレー経験があり、2013年時点で「アメリカ大学野球殿堂入りと全米カレッジバスケットボール殿堂入りの両方を果たした唯一の選手」である。
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経歴
要約
視点
デューク大学時代は野球とバスケットボールの両方でオールアメリカン(全米代表チーム)に選ばれており[2]、両スポーツで優秀な実績を残した。特にバスケでは839ポイントのNCAAシーズン記録も樹立した[3]。
大学を卒業した数日後にアマチュアフリーエージェントとして、ブランチ・リッキーがゼネラルマネージャーを務めるMLBのピッツバーグ・パイレーツと契約を交わした[2]。初年の1952年にいきなり遊撃手として95試合に出場し、同年の新人王投票でも3位の得票率を獲得した[4]。また、1952年のNBAドラフトでNBAのフォートウェイン・ピストンズから1巡目(全体3位)指名を受けて入団しており、この野球シーズンのオフにピストンズで1シーズンのみプレーしている。
1953年と1954年はアメリカ陸軍で兵役に就いていたために試合に出場することが出来なかった[2]。
1955年にピストンズには戻らず、パイレーツに復帰した。
1960年は打率.325で首位打者のタイトルを獲得し、MVPも受賞した。以後、ナショナルリーグ遊撃手の打撃タイトル獲得者は2009年まで40年近く現れなかった(2009年にフロリダ・マーリンズのハンリー・ラミレスが打率.342で首位打者獲得)[2]。チームもこの年にナショナルリーグを制覇しており、ニューヨーク・ヤンキースとのワールドシリーズ第7戦の4-7と3点リードされた8回裏にグロートは反撃の口火となる適時打を放った。パイレーツはこの回に一挙5点を取り、9-7と逆転した。9回表にヤンキースに同点に追い付かれたが、9回裏にパイレーツは先頭打者のビル・マゼロスキーがワールドシリーズ史上初となる劇的なサヨナラ本塁打を放ち、ワールドチャンピオンに輝いた。
1962年11月19日にドン・カードウェルらとの交換トレードでセントルイス・カージナルスへ移籍した。
1964年はワールドシリーズでカージナルスが4勝3敗でヤンキースを破り、2度目のワールドチャンピオンを経験した。
1965年10月27日にビル・ホワイトらとのトレードでフィラデルフィア・フィリーズへ移籍した。
売却する形で1967年6月22日にサンフランシスコ・ジャイアンツへ移籍したが、1967年はトータルで打率.156しか残せず、この年限りで現役を引退した。
ヒットエンドランの達人であり、パイレーツ時代は堅実な守備で二塁手のビル・マゼロスキー(後に守備が評価されてアメリカ野球殿堂入り)と鉄壁の二遊間を形成した。打撃の方は非力であったが、打率3割以上を4度記録した。オールスターゲームには通算で5度(1959・1960・1962・1963・1964年)選出されている。
2011年にアメリカ大学野球殿堂入りを果たした[5]。4年前の2007年にはアメリカ大学バスケットボール殿堂入りしているため[2]、「アメリカ大学野球殿堂とアメリカ大学バスケットボール殿堂の両方で殿堂入りを果たした最初の(2013年時点で唯一の)選手」となった。
2023年4月27日死去。92歳没[1]。
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詳細情報
MLB年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
MLBにおけるタイトル
- 首位打者:1回 (1960年)
MLBにおける表彰
- シーズンMVP:1回 (1960年)
- ルー・ゲーリッグ賞:1回 (1960年)
- MLBオールスターゲーム選出:5回 (1959年 - 1960年、1962年 - 1964年)
MLBでの背番号
- 24 (1952年 - 1967年)
- 20 (1967年)
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NBA個人成績
レギュラーシーズン
NBA通算成績
NBAでの背番号
- 5 (1952年 - 1953年)
出典
関連項目
外部リンク
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