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ドリュー・ストーレン
アメリカの野球選手 (1987 - ) ウィキペディアから
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ドリュー・P・ストーレン(Drew P. Storen, 1987年8月11日 - )は、アメリカ合衆国インディアナ州ヘンドリックス郡ブラウンズバーグ出身のプロ野球選手(投手)。右投両打。愛称はホーメージ[2]。
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経歴
要約
視点
プロ入り前
父マーク・パトリックはインディアナ州インディアナポリスのAMラジオ局・WNDEなどでスポーツ番組のパーソナリティとして活動している。ストーレンは子供のころはシアトル・マリナーズのファンで、好きな選手はケン・グリフィー・ジュニアだった[3]。2003年9月、父がモントリオール・エクスポズのトレーナーと知り合いだったことから、エクスポズがオハイオ州シンシナティに遠征してきたときに、ストーレンは球場でエクスポズの試合前練習を見学させてもらう。このときエクスポズに昇格したばかりだったチャド・コルデロと話をし、大学野球の全米選手権 "カレッジ・ワールドシリーズ" に出場したときのことなどを聞かせてもらったストーレンは、自分もその大会に出たいと思うようになった[4]。地元のブラウンズバーグ高校では最終学年時に、投げては55イニングで8勝1敗・防御率0.89・86奪三振、打っては打率.400・8本塁打・33打点を記録する活躍を見せる[5]。高校卒業時の2007年6月に、MLBドラフトでニューヨーク・ヤンキースから34巡目(全体1050位)指名を受けたが[6]、プロ入りはせず、当時カレッジ・ワールドシリーズ出場15回のスタンフォード大学へ進学する。
元々は三塁手兼先発投手として野球部に入ったストーレンだが、コーチからリリーフ転向を打診され承諾[4]、1年目の2008年からチームの抑え投手となった。この年、チームはレギュラーシーズンとその後のトーナメントを勝ち上がり、2003年以来5年ぶり16回目のカレッジ・ワールドシリーズ進出を決める。ストーレンはこの間8セーブを挙げ、目標としていた大会への出場を果たした。8大学によるダブルイリミネーション方式のトーナメントで行われる同大会では、ストーレンはフロリダ州立大学との初戦に登板。3点リードの8回裏に同点本塁打を喫したが、その直後に味方が一挙11得点で勝ち越し、結果的に勝利投手になっている[7]。チームは準決勝でジョージア大学に敗れ、全米王座獲得はならず。ストーレンの大学1年目は、31試合56.1イニングで5勝3敗8セーブ・防御率3.51・50奪三振という成績だった。続く2009年は、チームはカレッジ・ワールドシリーズ出場を逃す。ストーレンは引き続き抑え投手を務め、28試合42.2イニングで7勝1敗7セーブ・防御率3.80・66奪三振を記録した。
プロ入りとナショナルズ時代
2009年6月9日のMLBドラフトでは、1巡目(全体10位)でワシントン・ナショナルズがストーレンを指名。この順位での指名は、実力よりも契約可能性を優先してのものという評価が専らだった[8]。その見立て通り、指名翌日の10日には入団契約を結びプロ入りする。せっかちを自認するストーレンは、同日に球団幹部から「プロデビューはいつがいいか」と聞かれ「金曜日(12日)はどうですか」と答えたという[4]。結局、12日ではなく18日に、マイナーリーグのA級ヘイガーズタウン・サンズでプロ初登板[9]。これ以降、大学時代と同様に救援投手として登板を重ねたストーレンは、A+級ポトマック・ナショナルズを経てAA級ハリスバーグ・セネターズまで昇格してプロ1年目を終える。3クラス合計での成績は、28試合37イニングで2勝1敗11セーブ、防御率1.95、49奪三振、WHIP 0.78だった。
2010年は、シーズン開幕をAA級ハリスバーグで迎えたストーレンだったが、4月末にはAAA級シラキュース・チーフスへ昇格。そこで6試合に投げたところで、5月中旬にメジャーへ昇格することになった。不振のブライアン・ブルーニーと入れ替わる形でナショナルズに合流し[10]、5月17日のセントルイス・カージナルス戦でメジャーデビュー。2点ビハインドの7回裏一死一塁の場面で登場し、マット・ホリデイから空振り三振を奪うなど、この回を無失点に抑えた[11]。そのままメジャーに定着したストーレンは、前半戦終了時点で24試合に登板、中継ぎとして8ホールドを挙げる。後半戦になると、抑え投手だったマット・キャップスが途中でミネソタ・ツインズへトレード移籍したこともあって、試合を締める役割を担うことが増えるように。8月6日のロサンゼルス・ドジャース戦で9回裏の1イニングを無失点に抑えメジャー初セーブを記録すると[12]、シーズン終了までに計5つのセーブを稼いだ。この年にデビューした選手の中では54登板は5位、5セーブは高橋尚成に次いで2位の多さだった。
2011年は43セーブを記録。
2012年は故障で出遅れ、クローザーの座に復帰したのはシーズン終盤になってからだった。10月12日のリーグ優勝決定シリーズ進出が懸かったカージナルスとのディビジョンシリーズ第5戦では、2点リードの9回表に登板し、二死2ストライクまで追い込んでから4失点で逆転を許し、ナショナルズは敗退した。
2013年は、開幕前にチームがラファエル・ソリアーノを獲得したため、ストーレンは中継ぎに配置転換された。これが、影響したのか成績不振に陥り、マイナー降格となった。一連の出来事に、チームメイトのタイラー・クリッパードもチームの編成部に対して不満を言っている。
2014年1月17日にナショナルズと345万ドル+出来高(登板試合数によって変動)の1年契約に合意した[13]。この年は、4月から6月にかけて、毎月1失点ずつに抑えるロケットスタートを決めた[14]。7月には一時、不安定になったが、シーズン終盤にクローザーのラファエル・ソリアーノが調子を落とした為、ストーレンが代役を務めた[14]。クローザー定着後も役割を全うし、最終的には65試合に登板して防御率1.12・2勝1敗11セーブ・WHIP0.98という素晴らしい成績を収めた。しかし、サンフランシスコ・ジャイアンツとのポストシーズンでは初戦でセーブを失敗[14]し、チーム敗退の一因となった。
2015年はジョナサン・パペルボンが加入したが、全体としてはクローザーを務め、58試合に登板して29セーブを挙げた。なお9月9日のニューヨーク・メッツ戦では決勝打を打たれた悔しさからロッカーを殴って親指を骨折し[15]、残りのシーズンを棒に振った。
ブルージェイズ時代
2016年1月9日にベン・リビアとのトレードで、トロント・ブルージェイズへ移籍した[16]。新天地では守護神候補として期待されるも、3・4月の防御率が10.13と大乱調。その後も一向に状態が上がらず、7月24日にDFAとなった[17]。
マリナーズ時代
2016年7月26日にホアキン・ベノワとのトレードで、金銭と共にマリナーズへ移籍した[18]。 11月3日にFAとなった[19]。
レッズ時代
2017年1月3日にシンシナティ・レッズと1年300万ドルで契約を結んだ[20]。オフの11月2日にフリーエージェント(FA)となった[21]。12月にトミー・ジョン手術を受けた[22]。
フィリーズ傘下時代
2020年1月22日にフィラデルフィア・フィリーズとマイナー契約を結び、春季キャンプに招待された[23]。
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詳細情報
年度別投手成績
- 2022年度シーズン終了時
背番号
- 58(2010年)
- 22(2011年 - 2015年)
- 45(2016年)
- 40(2017年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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