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ビクター・ガラテ
ベネズエラの野球選手 (1984 - ) ウィキペディアから
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ビクター・ホセ・ガラテ(Victor Jose Garate, 1984年9月25日 - )は、ベネズエラ・アラグア州マラカイ出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。台湾球界での登録名は「克拉帝」。
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経歴
要約
視点
プロ入りとアストロズ傘下時代
2001年12月にヒューストン・アストロズと契約を結びプロ入り[1]。
2001年から2004年までの3年間はベネズエラン・サマーリーグでプレー[1]。
2005年からはアメリカに渡り、傘下ルーキー+級のグリーンビル・アストロズで19試合に登板して4勝1敗、防御率5.57という成績を残した[1]。
2006年は、A-級トリシティバレー・キャッツで21試合に登板して、4勝0敗8セーブ、防御率0.92という好成績を挙げた[1]。
ドジャース傘下時代
2007年12月6日に行われた、ルール・ファイブ・ドラフトでロサンゼルス・ドジャースから指名され移籍した[1]。
2008年は、傘下のA級グレートレイクス・ルーンズとA+級インランド・エンパイア・シックスティシクサーズでプレーした。
2009年に40人枠に登録された。同年はAA級チャタヌーガ・ルックアウツで47試合に登板した。
ナショナルズ時代

2009年9月2日にロニー・ベリアードとのトレードでワシントン・ナショナルズへ移籍した。9月4日にメジャーに昇格し、翌5日にメジャーデビューを果たした。この年は、メジャーで4試合に登板した。
2010年は、傘下のAA級ハリスバーグ・セネターズとAAA級シラキュース・チーフスで計40試合に登板した。オフに退団し、オリックス・バファローズの秋季キャンプにテスト生として参加したが、入団には至らなかった[2]。
マーリンズ傘下時代
2011年は、フロリダ・マーリンズと契約を結んだ。この年は、傘下のAAA級ニューオーリンズ・ゼファーズで43試合に登板した。オフに退団した。
ブルワーズ傘下時代
2012年は、ミルウォーキー・ブルワーズと契約を結んだ。傘下のAAA級ナッシュビル・サウンズで29試合に登板するも、成績不振で7月12日に解雇された。
独立リーグ時代
2012年7月19日にアトランティックリーグのヨーク・レボリューションと契約を結んだ。しかし、1試合に登板したのみで、1週間後の7月26日に解雇された。
メキシカンリーグ時代
2013年は、メキシカンリーグのサルティーヨ・サラペメーカーズと契約を結んだ。この年は、19試合に登板して、9勝4敗、防御率3.78の成績を挙げた[1]。
台湾・義大時代
2014年6月29日にCPBLの義大ライノズと契約した。13試合に登板し、7勝3敗、88奪三振、防御率2.59を記録した[4]。
日本ハム時代
2014年11月19日に北海道日本ハムファイターズと契約合意した[5]。
2015年3月29日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で先発投手を務め5回無失点と好投するなど、13試合登板で3勝1敗、防御率1.71の成績を残すも、負傷や外国人枠の関係により契約を解除され[6]、8月6日に自由契約選手として公示された[7]。
台湾・兄弟時代
2015年8月14日にCPBL・中信兄弟に移籍。同年限りで退団。
メキシカンリーグ時代
イタリア時代
2018年1月にイタリア・セリエAのT&Aサンマリノに入団した[8]。12試合に登板して0勝0敗3セーブ、防御率4.05という成績を残したが、1シーズンで退団した[9]。
現役引退後
2020-2021年シーズンより、ベネズエラのウィンターリーグであるリーガ・ベネソラーナ・デ・ベイスボル・プロフェシオナル(LVBP)のレオネス・デル・カラカスの監督に就任した[10]。また2021年からは、新規に始まったサマーリーグ(LMBP)のセナドレス・デ・カラカスでも監督を務める[11]。
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プレースタイル
ストレート、スライダー、チェンジアップを投げる[12]。
詳細情報
年度別投手成績
記録
- NPB
- 初登板・初先発・初勝利・初先発勝利:2015年3月29日、対東北楽天ゴールデンイーグルス3回戦(札幌ドーム)、5回無失点
- 初奪三振:同上、1回表に福田将儀から空振り三振
背番号
- 56 (2009年)
- 43 (2014年、2015年途中 - 同年終了)
- 42 (2015年 - 同年途中)
脚注
関連項目
外部リンク
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