トップQs
タイムライン
チャット
視点

マイク・ロトンド

ウィキペディアから

マイク・ロトンド
Remove ads

マイク・ロトンドMike Rotundo、本名:Lawrence Michael Rotunda1958年3月30日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラーフロリダ州セントピーターズバーグ出身[2]

概要 マイク・ロトンド, プロフィール ...

IRSことアーウィン・R・シャイスターIrwin R. Schyster)、マイケル・ウォールストリートMichael Wallstreet)などのリングネームで知られる[4]

ブラックジャック・マリガンの娘婿で、バリー・ウインダムケンドール・ウインダムとは義兄弟にあたる[2]。息子のウィンダム・ロタンダ(デューク・ロトンド / ブレイ・ワイアット)テイラー・ロタンダ(ボー・ロトンド / ボー・ダラス)もプロレスラーである[2]

Remove ads

来歴

要約
視点

シラキュース大学レスリング選手として活躍後、大学の先輩であるザ・デストロイヤーにスカウトされ、1981年9月22日、西ドイツにてプロデビュー[3]

1982年より、アメリカノースカロライナ州に本拠を置くジム・クロケット・ジュニア主宰のMACWで活動。レスリングの素地を持つ技巧派のベビーフェイスとして頭角を現し、12月25日にレロイ・ブラウンからNWAミッドアトランティックTV王座を奪取[5]1983年8月7日にはカナダトロントにて、ドン・カヌードルを破りNWAカナディアンTV王座を獲得した[6]

1983年9月より、エディ・グラハムが主宰していた地元フロリダCWFを主戦場とし、9月24日にロン・バスからフロリダ版のNWA南部ヘビー王座を奪取[7]、12月16日にはトーナメント決勝でグレッグ・バレンタインを破りNWAフロリダ・ヘビー級王座を獲得した[8]1984年1月から2月にかけては、リック・フレアーNWA世界ヘビー級王座にもフロリダ各地で再三挑戦している[9]。CWFではバリー・ウインダムとのタッグチームでも活動し、1984年3月14日にバス&ブラック・バートのロング・ライダーズからUSタッグ王座を奪取[10]。以降も同王座を巡り、ロング・ライダーズと抗争を展開した[10]

1984年末、ウインダムと共にWWFに移籍。フェイスターンしていたキャプテン・ルー・アルバーノマネージャーに迎え、"USエクスプレス" のチーム名で活躍[4]。翌1985年1月21日、ディック・マードック&アドリアン・アドニスのノース・サウス・コネクションを破り、WWF世界タッグ王座を獲得する[11]。3月31日にニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンで開催されたレッスルマニア第1回大会アイアン・シーク&ニコライ・ボルコフに奪取されるも6月17日に奪還、8月24日にバレンタイン&ブルータス・ビーフケーキのドリーム・チームに敗れるまで戴冠した[11]

1986年1月、ウインダムとのコンビで全日本プロレスに初来日[12]。この時点でUSエクスプレスはWWFを離脱していたが、ロトンドは以降もWWFに単発出場し、ダニー・スパイビーとの新チーム "アメリカン・エクスプレス" などで活動、ブレット・ハート&ジム・ナイドハートハート・ファウンデーションアックス&スマッシュデモリッションとも対戦した[13][14]

1987年3月15日には古巣のCWFにおいてエド・ガントナー英語版を破りNWAフロリダ・ヘビー級王座に返り咲き、6月7日にもドリー・ファンク・ジュニアを下して再び戴冠[8]。同年にCWFはMACWに吸収合併されたため、同王座の最後のチャンピオンとなった[8]。以降、かつての活動拠点であったMACWに主戦場を移す。

同年末にヒールに転向して、リック・スタイナーと大学のレスリング部をモチーフとした体育会系ユニット "バーシティ・クラブ" を結成[15]。試合用コスチュームもショートタイツからアマレス選手スタイルのショルダータイツとなった[15]。スタイナーと仲間割れ後の1988年9月からはスティーブ・ウィリアムスを新パートナーに活動(マネージャーはケビン・サリバンが務め、後にスパイビーも加入)[15]1989年4月2日、ウィリアムスと組んでロード・ウォリアーズを破りNWA世界タッグ王座を獲得した[16]

バーシティ・クラブ解散後、MACWを買収したWCWにて1990年11月より、証券アナリストギミックとしたマイケル・ウォールストリートに変身。以降、1990年代は頭脳派のホワイトカラー系ヒールとして活躍し、1991年3月の新日本プロレス来日[17]を経て、同年4月よりアメリカ国税局(Internal Revenue Service)と同じイニシャルのIRSことアーウィン・R・シャイスター(Irwin R. Schyster)を名乗りWWFに参戦[18]ワシントンD.C.出身の元IRS収税吏というキャラクター設定のもと、眼鏡にスーツ姿でブリーフケースを手に、マイクで観客に納税を促しながらリングに登場[19]。Yシャツにネクタイ、スラックス姿のまま試合を行うなど、WCWでのマイケル・ウォールストリートをさらに発展させたギミックで注目を集め、ハクソー・ジム・ドゥガンビッグ・ボスマンなどのブルーカラー系のベビーフェイスと抗争を繰り広げた[20]

Thumb
IRS(1994年)

1992年からは金満家ギミックの "ミリオンダラー・マン" テッド・デビアスと "マネー・インコーポレーテッドマネー・インク)" なるタッグチームを結成[21]。同年2月7日、リージョン・オブ・ドゥームを破りWWF世界タッグ王座を再び獲得[11]1993年4月4日のレッスルマニアIXでは、ハルク・ホーガン&ビーフケーキのザ・メガマニアックスを挑戦者チームに防衛戦を行い、デビアスと共にホーガンのWWF復帰戦の相手を務めた[22]。その後もWWFに定着して、デビアスとのマネー・インクではナチュラル・ディザスターズスタイナー・ブラザーズ、シングルではタタンカレイザー・ラモンなどと抗争を展開した[23][24]

1995年9月、WWFを離脱してWCWに移籍。ビンセント・ケネディ・マクマホンのイニシャルをもじったV・K・ウォールストリートを名乗ってWWFからの回し者キャラクターを演じ[4]、初戦となる9月11日放送のマンデー・ナイトロにてスティングUSヘビー級王座に挑戦した[25]1997年からはnWoの一員となり、同年6月にマイケル・ウォールストリートの名で新日本プロレスに6年ぶりに来日[26]。以降も1999年まで新日本プロレスに再三来日して、蝶野正洋率いるnWoジャパンおよびTEAM 2000で活躍した[3]

WCW離脱後は日本を主戦場とするようになり、2000年11月には全日本プロレスでウィリアムスとバーシティ・クラブを再結成して世界最強タッグ決定リーグ戦に出場、12月9日の日本武道館での決勝戦で川田利明&渕正信を破り優勝を果たした[27]2001年2月24日には、博多スターレーンにて太陽ケア&ジョニー・スミス世界タッグ王座にウィリアムスと組んで挑戦している[28]

2003年11月にはウインダムとのUSエクスプレスでIWAジャパンに参戦[29]。翌2004年5月4日、同団体の後楽園ホール大会で引退試合が行われ、ウインダム&三宅綾と組み、ドゥガン、ロード・ウォリアー・アニマル松田慶三のトリオと6人タッグマッチで対戦(レフェリーはデビアス)[30]、ドゥガンからフォールを奪い勝利を飾った。

引退後は、2006年よりWWEのロード・エージェントとして活動[4]。番組内にも時折登場し、2010年3月29日のRAWで行われたクリスチャンテッド・デビアス・ジュニアランバージャック・マッチでは、デビアス、ニック・ボックウィンクルパット・パターソンサージェント・スロータートニー・ガレアリッキー・スティムボートロディ・パイパージェリー・ローラーアーン・アンダーソンらと共に、レジェンドの1人としてランバージャック役を務めた[4]

2024年、ウインダムとのUSエクスプレスとしてWWE殿堂に迎えられた[31]。4月5日にフィラデルフィアウェルズ・ファーゴ・センターで行われた式典では、息子のボー・ダラスがインダクターを務めた[32]

Remove ads

得意技

獲得タイトル

ミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリング
メープル・リーフ・レスリング
  • NWAカナディアンTV王座:1回[6]
チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ
ワールド・レスリング・フェデレーション / ワールド・レスリング・エンターテインメント
全日本プロレス

脚注

関連項目

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads