トップQs
タイムライン
チャット
視点

ミゲル・メヒア (投手)

アメリカ出身でプエルトリコの野球選手 (1988 - ) ウィキペディアから

ミゲル・メヒア (投手)
Remove ads

ミゲル・A・メヒアMiguel A. Mejia1988年1月19日[1] - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン区出身のプロ野球選手投手)。

概要 基本情報, 国籍 ...
概要 獲得メダル, プエルトリコ ...

埼玉西武ライオンズ在籍時は登録名をミゲル・メヒア[2]とし、略称はファーストネームのミゲルを使用[3]、ユニフォームの背ネームも「MIGUEL」となっている。台湾球界での登録名は「米吉亞M.M」だった。

Remove ads

経歴

要約
視点

プロ入り前

高校はプエルトリコの野球アカデミーで過ごした。その後、フロリダ国際大学へ進学する。

タイガース傘下時代

2009年デトロイト・タイガースと契約を結んだ。この年はルーキー級ガルフ・コースト・リーグ・タイガースとA+級レイクランド・フライングタイガースで計3試合に登板した。

2010年はA-級コネチカット・タイガースとA級ウェストミシガン・ホワイトキャップス、A+級レイクランド・フライングタイガースでプレーした。オフに退団した。

マーリンズ傘下時代

2011年フロリダ・マーリンズと契約を結んだ。この年は、A-級ジェームズタウン・ジャマーズで6試合に登板したが、不振で解雇された。その後、独立リーグであるアトランティックリーグブリッジポート・ブルーフィッシュと契約を結んだ。ここでは、13試合に登板した。その後、フロリダ・マーリンズに復帰(マイナー契約)。A級グリーンズボロ・グラスホッパーズでプレーした。オフに退団。また、第39回IBAFワールドカッププエルトリコ代表に選出されている。

台湾球界時代

2013年3月にCPBL兄弟エレファンツに入団。先発で18試合に登板し、5勝8敗、防御率3.39。中継ぎは3試合で0勝1敗だった。オフには北海道日本ハムファイターズの入団テストを受験するも不合格[4]

2014年1月28日にLamigoモンキーズへ移籍。抑えに転向し、5勝1敗35セーブ4ホールドを記録、最多セーブのタイトルを獲得した。台湾では2年間で、通算76試合(18先発)登板で10勝10敗35セーブ、防御率2.55だった。

西武時代

2014年11月、テスト生としてNPB埼玉西武ライオンズの秋季キャンプに参加する為、エスメリング・バスケスと共に来日した[5][6]、11月13日にバスケスと共に西武との契約合意が発表された[7]

2015年は主に抑え候補として期待されたが、髙橋朋己とのクローザー争いに敗れ、開幕は二軍スタートであった。持ち味であったストレートを痛打されるケースが目立ち1軍登板は僅か4試合に終わり[8]、同年10月2日に球団から契約を解除すると通告したことを発表された[9]。10月8日に自由契約が公示された[10]

西武退団後

2015年12月21日にシカゴ・カブスとマイナー契約を結び、2016年はカブス傘下でプレー。12月10日にカブスとマイナー契約で再契約。

2017年開幕前の2月8日第4回WBCプエルトリコ代表に選出された[11]3月22日の決勝アメリカ合衆国戦に敗戦し、2大会連続で準優勝となった[12]。レギュラーシーズンでは前年に続きカブス傘下でプレー。オフに自由契約となり、11月17日にメキシカンリーグのメキシコシティ・レッドデビルズと契約。

2019年6月20日にメキシカンリーグのカンペチェ・パイレーツと契約。しかし同年限りで退団した[13]

Remove ads

プレースタイル

150キロを超えるストレートが武器で、スライダーやチェンジアップを投げることが出来る。

人物

埼玉西武ライオンズでは、同じチームにエルネスト・メヒア(登録名:メヒア)が在籍していることもあり、球団の勧めでファーストネームである「ミゲル」を登録名とした[14]

詳細情報

年度別投手成績

さらに見る 年 度, 球 団 ...
  • 赤字はリーグ歴代最高
  • 2015年度シーズン終了時

記録

背番号

  • 24 (2013年)
  • 5 (2014年)
  • 42 (2015年)

代表歴

Remove ads

脚注

関連項目

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads