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モーリー・ウィルス
アメリカの野球選手、監督 (1932 - 2022) ウィキペディアから
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モーリス・モーニング・ウィルス(Maurice Morning Wills, 1932年10月2日 - 2022年9月19日)は、アメリカ合衆国ワシントンD.C.出身のプロ野球選手(遊撃手、三塁手)。右投両打。
1960年代、3度のリーグ優勝、2度のワールドシリーズ優勝を成し遂げたロサンゼルス・ドジャースで、チームの攻守の要として活躍した。
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経歴
要約
視点
高校卒業後、1951年に当時ニューヨークのブルックリンに本拠地を置いていたドジャースに入団したが、当時のドジャースには後にアメリカ野球殿堂入りを果たす名遊撃手ピー・ウィー・リース(1958年引退)がいたこともあり、なかなかMLB昇格のチャンスもなかった。
1956年オフにシンシナティ・レッズ傘下マイナー球団に移籍し、さらにデトロイト・タイガースの傘下マイナー球団にも移籍したが、そこでもMLB昇格はできなかった。
1959年開幕前にロサンゼルスに移転していたドジャースに復帰した。同年6月6日に26歳8ヵ月でMLBデビューを果たした。同年のシカゴ・ホワイトソックスとのワールドシリーズにも全6試合に出場し、MLB1年目からワールドシリーズ優勝を経験した。
1960年にはレギュラーに定着。この年50盗塁を記録してナショナルリーグ盗塁王に輝くと、1965年まで6年連続で盗塁王に輝く。 ナショナルリーグの選手でシーズン50盗塁を記録したのは1923年のマックス・キャリー(51盗塁)以来37シーズンぶりであった。
特筆すべきは1962年で、この年にはMLB歴代最多の165試合(後述)に出場し、MLB史上初の100盗塁となるシーズン104盗塁を記録した。盗塁失敗はわずか13回(ただしこれでもナ・リーグ最多)で、盗塁成功率は89%に及んだ。三塁打10もナ・リーグ最多で、打率も.299を記録し、この年のナ・リーグ最優秀選手に選出された。引退後1974年にルー・ブロックに更新されるまでMLB記録であった。現在でもスイッチヒッターの最多記録である。また、この1962年にはMLBオールスターゲームのMVPにも輝いた。俊足を生かして守備にも優れ、1961年と1962年にはゴールドグラブ賞を受賞。オールスターゲームには通算5回選出された。
1966年には39盗塁に終わり、連続盗塁王は6年でストップ。そして盗塁失敗は24に及び、この年限りでピッツバーグ・パイレーツに移籍した。パイレーツ移籍後も1967年は打率.302、29盗塁、1968年は52盗塁と活躍したが、1969年には拡張ドラフト新球団モントリオール・エクスポズに移籍。同年シーズン途中にドジャースに移籍し、1972年に40歳で引退するまで在籍した。
現役引退時のオフには日本の南海ホークスの選手兼任監督だった野村克也とヘッドコーチのドン・ブレイザーが、選手兼任コーチとして獲得を目指し、本人も入団に傾いていたが、当時球団社長だった新山滋が年齢面で選手兼任に難色を示し、コーチ専任での入団を主張したことから実現しなかった[1]。
1980年にシアトル・マリナーズで監督を務めたが、成績が振るわず、翌年のシーズン途中で解任された。その後、阪急ブレーブスでキャンプでの臨時コーチに招かれたことがあった(1978年から)(実は、阪急で正式にコーチになる予定もあったが実現しなかった。)。

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シーズン165試合出場
1961年、1962年の球団数拡張以降、MLBの年間試合数は、引き分け再試合があった場合を除き、162試合と定められた。また1969年に地区制が導入される以前は、公式戦で2チームが同率1位の場合、ナショナルリーグは最大3試合(2戦先勝制)、アメリカンリーグは1試合の優勝決定戦を設ける規定となっており、この優勝決定戦の記録は、そのシーズンの個人成績にも反映された。1962年、ナショナルリーグのサンフランシスコ・ジャイアンツとドジャースは162試合終了時点で、同率1位となっており、3試合の優勝決定戦が開催されることとなった。両チームの中で、優勝決定戦の3試合を含め、唯一全試合出場を果たしたのがウィルスであった。結局、ジャイアンツとの優勝決定戦には破れたものの、この年、ウィルスはタイ・カッブのもつシーズン96盗塁を更新し、104盗塁を記録。史上初めて3桁の盗塁を達成し、同年のリーグMVPに選ばれた。
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選手としての特徴
盗塁のスタートの仕方はクロス・オーバー・ステップという技術であったことが知られている[3]。
人物
息子のバンプ・ウィルスもテキサス・レンジャーズなどで6年間に渡りメジャーで活躍、通算196盗塁を記録。1983年・1984年には父が臨時コーチを務めた縁で、日本の阪急ブレーブスでプレイしている。
詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はMLB歴代最高。
年度別守備成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- 各年度の太字年はゴールドグラブ賞受賞
タイトル
- 盗塁王:6回(1960年 - 1965年)
表彰
- シーズンMVP:1回(1962年)
- ゴールドグラブ賞(遊撃手部門):2回(1961年、1962年)
- MLBオールスターゲームMVP:1回(1962年)
- スポーティング・ニューズ・メジャーリーグ・プレイヤー・オブ・ザ・イヤー:1回(1962年)
記録
- MLBオールスターゲーム選出:5回(1961年 - 1963年、1965年、1966年)
- シーズン最多出場試合:165(1962年)
背番号
- 30(1959年 - 1972年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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