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リッチー・シェインブラム
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リチャード・アラン・シェインブラム(Richard Alan "Richie" Scheinblum、1942年11月5日 - 2021年5月10日[1])は、アメリカ合衆国・ニューヨーク州ニューヨーク出身のプロ野球選手(外野手)。
NPBでの登録名は「シェーン」。
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来歴・人物
ユダヤ系ウクライナ人の家庭に生まれる。ロングアイランド大学を経て、1964年にクリーブランド・インディアンスと契約。翌1965年9月1日の対カンザスシティ・アスレチックス戦でメジャーデビューを果たす。カンザスシティ・ロイヤルズ在籍時の1972年には、MLBオールスターゲームにも出場する活躍を見せ、シーズン打率.300(リーグ6位)を記録した。
その後、ジョー・ルーツに請われて1975年にセントルイス・カージナルスより広島東洋カープに入団[2]。登録名の「シェーン」は、ファミリーネームの「シェインブラム」では長すぎることと西部劇の『シェーン』にちなんだといわれる[3] 。本人は陽気で大らかな性格で、名前を省略される形になったこの登録名も「問題ないよ。ただ、僕は馬は連れて来ないけどね」とジョークで受けたという。
ゲイル・ホプキンス、山本浩二、衣笠祥雄のクリーンナップと共に赤ヘル打線を形成し、セントラル・リーグ初優勝に貢献した。1975年5月17日の対大洋ホエールズ戦では、日本プロ野球で初めて1試合左右両打席本塁打を記録している。
敬虔なユダヤ教の教徒で1975年9月14日の対読売ジャイアンツ戦ではこの日がユダヤ教信者懺悔の日という宗教的理由で欠場した[3]。ユダヤ暦によるとこの日はヨム・キプルという人間の罪を懺悔する日で、メジャーではサンディー・コーファックスが同じ理由でワールドシリーズの1試合を欠場している。
1976年に打率.307、20本塁打、62打点と前年より好成績を残すも、守備難があったため同年限りで退団した。
2021年5月10日死去。明確な死因は不明(「長い闘病生活の末」と親族からは公表されている)[1]。
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エピソード
- シェーンがカープ在籍中、広島市民球場での試合の際にライトスタンドの観客から「何かネタを披露してくれ」とねだられたことがあり、帽子の中に鳥を入れておき帽子を取ると鳥が飛んでいくというネタを披露した[4]。
- 当時の広島カープ監督の古葉竹識は、自身の監督在任中に入団して来た高橋慶彦、山崎隆造、正田耕三をスイッチヒッターに転向させたことについて、カープ初優勝の1975年に左右両打で好打を放つシェーンの活躍を見て『相手投手が右でも左でも交代させる必要がないスイッチヒッターは、チームにとっても大変重要な存在である』と痛感したことがそのきっかけであったことを語っている[5]。
- 息子のモンテはプロゴルファーであり、1992年に時速20マイルの逆風の中、329ヤード13インチを記録してこの年の全米ロングドライブ選手権で優勝し、世界ロングドライブチャンピオンにもなっている。
詳細情報
年度別打撃成績
記録
- MLB
- MLBオールスターゲーム選出:1回 (1972年)
- NPB
背番号
- 24 (1965年)
- 28 (1967年 - 1969年)
- 39 (1971年 - 1971年途中)
- 35 (1971年途中 - 同年終了)
- 5 (1972年、1975年 - 1976年)
- 26 (1973年 - 1973年途中)
- 9 (1973年途中 - 1974年途中)
- 30 (1974年途中 - 1974年途中)
- 19 (1974年途中 - 同年終了)
出演
- 広島ホームテレビ開局45周年記念番組「キニナルてれび」(2015年1月10日)
脚注
関連項目
外部リンク
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