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ロビン・ロバーツ
アメリカ合衆国の野球選手 (1926-2010) ウィキペディアから
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ロビン・エバン・ロバーツ(Robin Evan Roberts, 1926年9月30日 - 2010年5月6日)はアメリカ合衆国イリノイ州スプリングフィールド出身の元プロ野球選手(投手)。右投両打。
1948年から1966年にかけて、主にMLB・フィラデルフィア・フィリーズで先発投手として活躍し、通算286勝を記録し、アメリカ野球殿堂入りを果たした。
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経歴
要約
視点
ミシガン州立大学出身。最初はバスケットボールをプレーしていたが、途中から野球に力を入れるようになった。フィラデルフィア・フィリーズに入団し、1948年6月18日にメジャー初登板・初先発。 この年は7勝9敗に終わるが、翌1949年は15勝を記録する。ただし、15敗を喫し、まだ不安定であった。1950年は40試合登板(先発39試合)で20勝11敗、防御率3.02の好成績を残し、オールスターゲーム初出場。この年チームは35年ぶりにナ・リーグ優勝[1]を果たしたが、ロバーツは最後の5試合中3試合に先発登板。シーズン最後の登板では優勝争いを繰り広げるブルックリン・ドジャースを敵地エベッツ・フィールドで延長10回の末破り、優勝を決めると同時にチームでは1917年のピート・アレクサンダー以来の20勝を記録した。このフィリーズの快進撃はMLBの歴史において「Whiz Kids」と呼ばれる。
1950年から1955年まで、20勝11敗、21勝15敗、28勝7敗、23勝16敗、23勝15敗、23勝14敗と毎年20勝をあげ、1952年の28勝は、ナ・リーグでは1935年以後の最多勝利である。1952年から1955年までは4年連続最多勝利のタイトルを獲得。1953年(198奪三振)・1954年(185奪三振)には最多奪三振のタイトルを獲得。1954年5月13日のシンシナティ・レッズ戦では、初回1番打者のボビー・アダムズに本塁打を浴びるが、以後27人をパーフェクトに抑えて完投勝利(スコアは8-1)。当時のナ・リーグを代表する投手であった。コントロールに優れ、与えた四球はシーズン最多でも77(1950年、ただし304.1回を投げており、9イニング平均では2.28個)。打力にも優れ、通算打率こそ.167だが、通算安打は255で、うち二塁打55、三塁打10、本塁打5があり長打率は.226、打点も103あった。1956年に19勝(18敗)に終わって20勝が6年連続で止まると、以後20勝をあげることはなかった。1957年以後は10勝22敗、17勝14敗、15勝17敗、12勝16敗と負け越すシーズンが増え、1961年に1勝10敗に終わるとフィリーズから戦力外通告となる。その一方でロバーツの長年のチームへの功績も評価され、退団した翌1962年にロバーツの背番号「36」はフィリーズ初の永久欠番に指定された。
1962年からはボルチモア・オリオールズに移籍。この年10勝9敗と復調し、1963年には14勝13敗、1964年も13勝7敗を記録する。1965年途中にヒューストン・アストロズに移籍し、両球団合計で10勝を記録するが、1966年途中にシカゴ・カブスに移籍し、合計5勝を記録したのがメジャー最後となった。あと14勝の通算300勝達成に意欲をみせ、翌1967年はマイナーで投げたが、メジャー復帰はかなわず、現役を引退した。
1940年代から1960年代にかけては300勝を達成した投手がウォーレン・スパーン(アトランタ・ブレーブス他、左腕最多の363勝)しかいなかった。主にこの間に活躍し、殿堂入りしたボブ・フェラー(インディアンス)が266勝、ボブ・ギブソン(セントルイス・カージナルス)が251勝、フアン・マリシャル(サンフランシスコ・ジャイアンツ他)が243勝、ホワイティー・フォード(ニューヨーク・ヤンキース)が236勝。フェラーの場合は全盛期に3シーズン以上兵役でとられたハンデがあるとはいえ、彼らと比べてもロバーツの成績は優秀である。喫した本塁打505本は2010年6月27日にジェイミー・モイヤーに更新されるまでMLB歴代最多だった
投手としての主な球種は1951年頃まではライジングファストボール(浮き上がるストレート)、スローカーブ、シンカー(時々投げた)。 1952年以降はライジングファストボール(浮き上がるストレート)、ハードカーブ、スローカーブ(チェンジアップ)、シンカー(時々投げた)。(米書「guide to pitchers」より)
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引退後
フィラデルフィア・フィリーズの永久欠番に1962年指定。
引退後、1976年にアメリカ野球殿堂入り。1999年にはオールセンチュリー・チームの最終30人にノミネートされている。現在フィリーズ本拠地シチズンズ・バンク・パークの球場外(一塁側)に銅像が建てられている。
2010年5月6日、老衰のためフロリダ州の自宅で死去。83歳没[2]。逝去後、古巣フィリーズでは2010年シーズン中はロバーツの永久欠番「36」のユニフォームをベンチに掲げるほか、各選手の袖にロバーツの永久欠番「36」をあしらった喪章パッチをつけて試合に臨んだ。
詳細情報
年度別投手成績
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別守備成績
タイトル
表彰
- ルー・ゲーリッグ賞:1回(1962年)
- アメリカ野球殿堂入り(1976年)
- オールセンチュリーチームにノミネート(1999年)
記録
- MLBオールスターゲーム選出:7回(1950年 - 1956年)
背番号
- 36(1948年 - 1961年、1966年途中 - 同年終了)※フィラデルフィア・フィリーズの永久欠番
- 38(1962年 - 1966年途中)
著書
いずれもC.ポール・ロジャースとの共著
- 「The Whiz Kids and the 1950 Pennant」(1996年)
- 「My Life In Baseball」(2003年)
脚注・参考
外部リンク
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