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万里小路通房
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万里小路 通房(までのこうじ みちふさ、1848年6月27日〈嘉永元年5月27日〉 - 1932年〈昭和7年〉3月4日)は、幕末の公家、明治期の官僚・政治家。貴族院伯爵議員。
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経歴
山城国京都で、万里小路博房の息子として生まれる[1]。母は森長義の11女・貞子[2]。嘉永3年2月(1850年)に叙爵し、慶応元年10月(1865年)右少弁に就任[1]。
慶応3年12月9日(1868年1月3日)王政復古を迎え書記御用掛となる[1]。慶応4年2月20日(1868年3月13日)参与・軍防事務局親兵掛に就任[3]。同年閏4月、東下する三条実美に随行し、同月権右中弁となる[1]。戊辰戦争に際し錦旗奉行加勢、鎮将府弁事、御旗監・参謀助勤、兼大総督府参謀などを務め、東北に出征した[1][3]。その後、軍務官副知事助勤を務め、明治2年2月(1869年)勅使として山口の毛利敬親に召命の宸翰を伝達した[1]。明治2年6月2日(7月10日)戊辰の戦功により賞典禄100石を永世下賜された[3]。
明治3年11月(1870年)イギリスへ留学し、1874年7月に帰国[1][4]。その後、工部省御用掛、宮内省御用掛、侍従を歴任[4]。父・博房の死去により、1884年(明治17年)4月14日、家督を相続[2]。同年7月7日、伯爵を叙爵[5]。1891年(明治24年)2月5日、補欠選挙で貴族院伯爵議員に選出され[6][7]、研究会に属し1924年(大正13年)9月25日まで在任した[8][9]。1912年(大正元年)9月の明治天皇大喪儀では大喪使祭官副長を務めた。
長く滞在していた千葉県安房郡北条町(現館山市)の別邸「静心庵」で農業指導も行い、1898年(明治31)年、本籍を北条町に移す。社会教育団体「安房大道会」の会長や「日本弘道会安房支会」の顧問を務め、1913年(大正2年)には後任が決まるまでの7日間だけ北条町長を務めた。関東大震災後は「静心庵」を本邸とした[4]。墓所は東京・港区の妙定院。
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栄典
系譜
- 父:万里小路博房(1824 - 1884)
- 母:貞子(? - 1860) - 森長義十一女
- 妻:池田八重子(1850 - 1897)- 池田健蔵の娘
- 長女:伴子(1867 - 1951) - 堀田正倫の継室[2]。
- 次女:跡見李子(1868 - 1956) - 跡見花蹊の養女になり跡見女学校2代目校長となる
- 三女:東美子(1870 - 1944) - 賀茂水穂の長男・賀茂巌雄(海軍中將、湯浅蓄電池製造役員)の妻[15]
- 長男:直房(1875 - 1907)[2] - 嫡子[16]。妻は万里小路素信の長女・智子(1879 - 1952、跡見女学校卒)。子に芳房(1903 - 1980、早稲田大学卒)[2]。
- 次男:葉室長通(1876 - 1944) - 葉室家の葉室長邦婿養子となり伯爵になる[2]。別名葉室通次。長女の婿に葉室直躬(鍋島直柔三男[17])
- 後妻:松平忠栄の娘
- 妾:松本エイ
脚注
参考文献
外部リンク
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