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京塚昌子

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京塚昌子
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京塚 昌子(きょうづか まさこ、1930年昭和5年〉3月16日 - 1994年平成6年〉9月23日)は、日本の女優。第10回芸術祭賞奨励賞受賞。

概要 きょうづか まさこ 京塚 昌子, 本名 ...

来歴

東京都出身。1946年、疎開先の栃木県立佐野高等女学校(現・栃木県立佐野東高等学校)卒業[1]。高校卒業後、新派へ入団して研究生となる。

川口松太郎に認められて[2]、1955年「月夜鴉」で初めて主役を演じ、同年「離れ猪」「太夫さん」の演技で芸術祭奨励賞を受賞[1]

1959年(昭和34年)8月23日から1972年(昭和47年)2月6日まで放映されたTBSテレビ系列の東芝日曜劇場人気シリーズ『カミさんと私』で伊志井寛の相手役として人気を博す。

1963年には東宝演劇部入りして、舞台「マイ・フェア・レディ」などに出演[2]

1968年、伊志井の娘である石井ふく子プロデュース作品『肝っ玉かあさん』で、蕎麦屋を切り盛りするしっかり者で涙もろい母親役を好演。『ありがとう』(第4シリーズ)などでも佐良直美の母親役を演じ、1970年代のテレビ業界において、「恰幅が良く、割烹着が似合う母親役」で絶大な人気を誇った。

京塚は森光子加藤治子山岡久乃らとともに、「日本を代表するお母さん女優」と呼ばれ、CMにも起用されていた。

上記の石井プロデュース作品が当たり役となったことから、「石井組(ファミリー)」の一員に数えられていた。

1971年糖尿病を患い、1983年に公演先の愛媛県松山市脳梗塞で倒れる。1984年から1985年にかけては後遺症に耐えながら、一度は復帰したものの症状が悪化。

1986年4月には「体調が不本意なため、納得のできる仕事ができない」と休業宣言し、山梨県甲府市の病院に入院した。その後は静岡県長野県と各地の病院を転々として晩年は長い闘病生活を送り、事実上の芸能界引退状態となった。

1994年9月23日午後7時過ぎ、東京・田町の病院の一室で、心不全のため死去。64歳没

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人物

  • 母親役のイメージが強いが、私生活では数々の浮名を流し、一時は同棲していたこともあった。戸籍上は独身を貫いた。
  • 大の酒豪であり、ウイスキーのボトルを一晩で3本も空けたこともあった。
  • 馬主の経歴もあった。

エピソード

  • 山盛り食堂』(脚本・向田邦子)出演時には、当時子役だった杉田かおるが京塚に抱きつく場面を撮影中に杉田が腹の肉をつかんだと激怒した。その後に杉田は京塚の意向で降板させられた。(杉田かおる自伝「すれっからし」より)。
  • 若い頃はスレンダーな美人だったが20代の頃、盲腸の手術をしたことで体質が変わり、どんどん太り始めたという。

出演作品

テレビドラマ

映画

  • 私は二歳(1962年11月18日、大映) - 千代の姉
  • 台所太平記(1963年6月16日、東宝) - 駒
  • 日本一の色男(1963年7月13日、東宝) - 権田原コチ
  • 男嫌い(1964年2月1日、東宝) - 森矢もと子
  • 続・社長紳士録 (1964年2月29日、東宝) - 天竜
  • 日本一のゴマすり男(1965年5月29日、東宝) - 目高静代
  • 狸の大将(1965年7月25日、東宝) - 芸者屋女将
  • 喜劇 仰げば尊し(1966年10月22日、東京映画) - 桜井友子
  • 喜劇 駅前学園(1967年4月15日、東京映画) - 正子
  • 颱風とざくろ(1967年9月15日、東宝) - 桑田ゆみ子
  • 喜劇 競馬必勝法(1967年 9月18日、東映) - 大田原ふさ子
  • 春らんまん(1968年1月14日、東宝) - 宮尾
  • 女と味噌汁(1968年2月14日、東宝) - 前川京子
  • 空想天国(1968年8月14日、東宝=渡辺プロ) - 田丸久子
  • 燃えろ!青春(1968年12月19日、東宝) - 小森民江
  • 喜劇 駅前桟橋(1969年2月15日、東京映画) - 松木克子
  • 結婚します(1969年3月29日、松竹) - 梅小路綾子
  • おんなの朝 あまから物語 (1971年6月5日、松竹)
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関連人物

脚注

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