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山岡久乃

日本の女優 (1926-1999) ウィキペディアから

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山岡 久乃(やまおか ひさの、1926年大正15年〉8月27日[1] - 1999年平成11年〉2月15日)は、日本女優

概要 やまおか ひさの 山岡 久乃, 本名 ...

東京府東京市大森区馬込生まれ。身長162cm、体重49kg。趣味は乗馬手芸。特技はスキー。過去の出演作品については権利継承者である養女からオフィス天童[2]に委任されている。生涯のテレビドラマ本数は400本以上にも上る。

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来歴・人物

要約
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役者デビュー

1942年、33期生として宝塚音楽舞踊学校に入学。男役志望で清澄あきらの芸名も予定していたが、太平洋戦争が勃発・進展により劇団生活に限界を感じ、一度も舞台に立つことなく1944年に音楽学校を中途退学する。

終戦後改めて俳優座養成所で演技の勉強をし直し、1946年俳優座に正式入団[3]。同年の『文化議員』で初舞台を踏む。初出演映画は1953年の『やっさもっさ』である。1954年には、同じ俳優座の準劇団員だった東恵美子初井言榮らとともに劇団青年座を結成[1]。その後、日活と専属契約を結び多くの映画に出演し、青年座創生期は屋台骨として劇団を支える。以来、舞台をはじめ映像分野でも幅広く活躍する総合女優として活躍した。

1956年、同じ青年座創立メンバーだった俳優森塚敏と結婚するが、1971年に離婚した。離婚と同年、青年座を退団[1]。その後は終世独身を通した。

テレビの世界へ

脇役を中心に、多くのテレビドラマに出演する傍ら、契約が切れる1960年代中盤まで日活の映画にも数多く出演した。1966年には、主演映画『こころの山脈』も公開され、女優としてステップアップしていった。

1970年の『ありがとう』で役者としての人気を決定付ける。ドラマは娘役の水前寺清子とのコンビが評判となり、視聴率50%を突破して「怪物ドラマ」と呼ばれた。この作品を契機に森光子加藤治子京塚昌子らとともに、白い割烹着が似合う「お母さん女優」としての地位を確立した[3]。以後も山岡は多くのホームドラマで母親役を演じ続け、「日本のお母さん」として慕われた[1]

TBS火曜9時枠の連続ドラマには1972年10月~1973年9月の『みんなで7人』(この作品のみ9時30分からの放送)から1976年9月~1977年4月の『三男三女婿一匹(第1シリーズ)』まで、途切れることなく連続して出演している。このうち『みんなで7人』、『家族あわせ』(1974年10月〜1975年3月)、『いごこち満点』(1976年4月~9月)はトップクレジットの主演作で、『あんたがたどこさ(第1シリーズ)』(1973年10月~1974年3月)、『あんたがたどこさ(第2シリーズ)』(1975年4月~9月)、『三男三女婿一匹(第1シリーズ)』の3作は、森繁との夫婦役で森繁に次ぐ準主役での出演であった。

ドラマ降板騒動について

1998年10月1日に放送されたテレビドラマ『渡る世間は鬼ばかり』第4シリーズ第1話において、山岡が演じる岡倉節子は「海外旅行中に心筋梗塞を起こし急死する」という設定で、遺影のみでの登場となった[4]。第4シリーズから突然、主演が次女役の泉ピン子に代わり、視聴者からは「山岡が出ていなくて寂しい」「どうなってるんだ」といった投書が新聞社などに寄せられた[4]

これに対しTBSは、総胆管結石症の手術とその際に発見された肝機能障害のため山岡側から降板要請があった、という異例の降板説明会見を行った[4]。会見では「山岡さん側から6月1日に送られてきた診断書を検討した結果、正式に出演は無理という判断に達しました。ああいう(急死の)形にしたことは山岡さんにも了解してもらっています」と説明があった[4]

第3シリーズ終了後、次シリーズへの出演拒否の意思を貫く山岡に対し、橋田や石井は何度も出演要請をしたり、橋田は手紙でも幾度も説得を試みたりしたが、山岡の意思は変わらなかった[5]。これに対し橋田がTBSに「山岡さんなしではドラマが成り立たないので、もうこのドラマはやめましょう」と打ち切りの方針を伝えたが、人気番組となっているためTBSは納得せず、節子を死亡した設定にして脚本も作り変え、製作することとなった。最後のOPクレジットにおいては、第3シリーズ総集編が組まれた上にスタート時点で生存設定であった第4シリーズ第1話が、OPで山岡の名前が載った最後の回となった。ちなみに、山岡は第3シリーズ放送終了後、1997年国際演劇月参加作品東宝現代劇5・6月特別公演「渡る世間は鬼ばかり3」の舞台版まで岡倉節子役を演じており、岡倉節子役を最後に演じたのはテレビではなく、この舞台公演であった。1997年6月29日の国際演劇月参加作品東宝現代劇での公演が岡倉節子を演じた最後の公演である。

理由のはっきりしない山岡の突然の降板は、、世間では数々の臆測を呼び、民放各局のワイドショー週刊誌などで報道された。節子役の「急死による降板」について、一部マスメディアからは「橋田の意見で節子を殺した」と強い言葉で報じられた[5]。山岡の認知症発症説や山岡と橋田の確執説、山岡の橋田への報復説なども噂されることとなった[4]。当時メディア出演が多くあった橋田が「(詳細は知らないながらも何かしらの)病気であることを知ってお見舞いに行こうとしたら(山岡の)事務所から断られた」、「山岡さんは私のことがよっぽどお嫌いなんでしょうね」[5]などと山岡への不用意な発言を度々行ったことも騒動に火に油を注いだ。当時のことについて、橋田は後年のインタビュー記事で「確執なんて色々書かれたけれど誤解もいいところです。でも作家と女優の関係ですから、個人的なお付き合いはほとんどなかったんです。お互いの意見や思いは、プロデューサーの石井さんが取り次いでくれていました。が、(晩年の病気について)正しい情報が私に伝わって来なかったってことは言えると思います」と語った[5]

死去

1998年12月、自らが胆管癌を患っていることを告白し[1][4]、同月15日に所属事務所を通じて山岡は「70年突っ走ってきてそろそろゆっくり歩いて行こうかと思っていた矢先に『癌』という最悪のシナリオを頂いてしまいました。ただ、幸いなことに、このシナリオには結末が書いてありません。私が自由に演じていいことになっているんですね。力が入りますよ。もう少し時間がかかると思いますが、しばらくこの女優の底力を見守ってください」というコメントを発表した[4]。この発表を聞いた橋田もそれまでの自分の発言を悔い、神社へお百度参りし山岡の回復を祈ったという。

しかし、コメント発表から2ヶ月後の1999年2月15日午後10時02分、胆管癌による心不全のため神奈川県川崎市の病院で死去した[1]72歳没

1998年1月6日に放送された、日本テレビ開局45周年記念ドラマ『嫁とり婿とり大騒動』への出演がテレビドラマにおける最後の出演となった。1998年2月の日生劇場での舞台『おもろい女』(森光子や芦屋雁之助らと共演)が山岡の生涯最後の仕事となり、黄疸を化粧で隠して病状が悪化するなか千秋楽まで演じきった映像が残されている。同年7月8月に芸術座で予定されていた単独座長公演『月の光』の舞台は踏めず、山岡の代役は親友の池内が務めた(のちに池内は『月の光』による演技で菊田一夫演劇大賞等を受賞した)。

なお、山岡の死去は各局のニュース速報でも流れ、連日のワイドショーなどでも大きく報道され一部スポーツ紙では一面トップ記事扱いにもなった。築地本願寺で行われた通夜・葬儀には、八千草薫黒柳徹子草笛光子池内淳子若尾文子野村昭子小林桂樹高倉健赤木春恵京唄子井上順、森繁久彌、植草克秀吉村涼えなりかずき山田雅人石坂浩二角野卓造、泉ピン子、中田喜子野村真美藤田朋子麻生美代子橋田壽賀子藤岡琢也萬田久子高橋由美子東山紀之麻丘めぐみ水前寺清子沢田雅美東てる美宇津井健山本学前田吟三田村邦彦山村聡池部良加藤治子淡島千景奈良岡朋子佐野浅夫篠田三郎香川照之船越英一郎夏木陽介和田アキ子大鹿次代など、多くの俳優仲間・後輩が訪れ、一般の参列者も多く訪れた。「これだけ大物俳優・女優が揃う通夜・葬儀は珍しい」と評されるほどだった。

喪主は山岡の養女が務め、通夜・葬儀の演出は石井が担当し、葬儀の司会は井上順が担当、弔辞は森光子と長山藍子蜷川幸雄が読んだ。棺の葬儀場入りの際は山岡の棺を乗せた車が1時間をかけて明治座帝国劇場芸術座をまわり、沿道には1万人のファンが集まった。戒名は「華徳院妙伎日久大姉」。山岡の遺体は渋谷区代々幡斎場荼毘に付された。墓地は東京都墨田区法恩寺

同年2月19日にTBSが放送した山岡の追悼番組は18.6%の視聴率を記録した。  

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逸話

面倒見が良く、事務所の掃除員やスタッフへ手料理を振舞うなど、気前も良かったために「お母さん」と慕われていた。

「準主役級の脇役」としての印象が強いが、1970年代以降は主演が多く、2時間ドラマの主演も多かった。

石井ふく子橋田壽賀子が関係する作品に多数起用されたため、「石井ファミリー(橋田組)」の筆頭格と見なされていた。

森光子杉村春子山田五十鈴加藤治子赤木春恵菅井きん麻生美代子杉山とく子佐々木すみ江奈良岡朋子八千草薫香川京子河内桃子黒柳徹子草笛光子池内淳子若尾文子らと共演が多かった。また、加藤・麻生・八千草・黒柳・池内のほか、三崎千恵子とも交流があった。

和田アキ子沢田雅美麻丘めぐみなどは実の娘のように可愛がっていた。

宝塚歌劇団の先輩でもあった乙羽信子とも共演が多く、仲が良かった。

山村聡森繁久彌千秋実三國連太郎小林桂樹藤岡琢也とは夫婦役で共演している。

晩年は池内、黒柳の3人で一緒に有料老人介護施設へ入居して隠居生活をしようと約束をしており、のちに夏木陽介も約束に加わった[6][7]

あんたがたどこさ』や『三男三女婿一匹(第2シリーズ)』等で共演した際、傍若無人な振る舞いの和田を叱りつけた。歌手・タレントとして多忙だった和田がドラマの朝10時からのリハーサルに遅刻してしまい、山岡からは「あなたは忙しいんでしょうけど、ドラマは皆で作るのよ!(=遅刻したら皆に迷惑がかかる)」と烈火の如く叱りつけた[8]。この叱咤によって改心し、山岡を「おっかあ」と呼んで母親のように慕うようになった[8]

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評価

演劇評論家の藤田洋も山岡の演技力と存在感を認め、「“お母さん女優”として、温かさと厳しさを併せ持った母親役をうまく演じてきた。」と評した[1]

受賞

出演作品

映画

テレビドラマ

NHK総合

日本テレビ系

TBS系

フジテレビ系

テレビ朝日系

  • お気に召すまま(1962年)第15話「友遠方より来たる」
  • 嫁・姑やせがまん、ダイエット合戦(1987年)
  • はぐれ刑事純情派(1990年)- 遠井キミヨ
  • 新春ドラマスペシャル・家族日和'93(1993年1月1日)- 間宮和子
  • 失われたとき・女たちの太平洋戦争II(1993年)

舞台

  • 流水橋
文化庁芸術祭賞菊田一夫演劇賞を受賞。
  • おもろい女※1998年2月日生劇場、山岡の生涯最後の仕事となった。黄疸を化粧で隠して千秋楽まで演じた映像が残されている。
  • 近松心中物語
  • 元禄港歌
  • レインボー通りの人びと
  • 油屋おこん
  • ハムレット
  • 鶴亀屋二代
  • ナポリの王様
  • おしん
  • 遙かなり山河
  • 櫻姫
  • 初蕾
  • レティスとラベッジ
  • 夫婦
  • トーチソングトリロジー
  • もず
  • 渡る世間は鬼ばかり(複数回上演されていたが、第3シリーズ放送終了後の1997年国際演劇月参加作品東宝現代劇5・6月特別公演「渡る世間は鬼ばかり3」の舞台版まで岡倉節子役を演じており、岡倉節子役を最後に演じたのはテレビではなくこの舞台公演となった)
  • 幸福
  • かたき同志
  • 夢千代日記
  • 田川のお仙
  • うちのおばあちゃん
  • 結婚する手続き
  • いくじなし
  • 友達

ラジオ

吹き替え

劇場アニメ

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脚注・出典

その他

外部リンク

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