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今井 (川崎市)

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今井(いまい)は、神奈川県川崎市中原区に存在した大字[3]。旧橘樹郡今井村、橘樹郡住吉村今井、橘樹郡中原町今井

概要 今井, 国 ...

1940年(昭和15年)に耕地整理が行われた結果、今井上町今井仲町今井南町今井西町が設置され[4]、大字としての今井は東急東横線の高架下に残っていたが[5]2015年(平成27年)実施の住居表示により今井南町に編入され消滅した。

地理

多摩川低地帯の中央に位置し、東端を二ヶ領用水が流れている[6]。土地は平坦ではあるが全体としてゆるやかに傾斜しており[7]、「新編武蔵風土記稿」によれば「東西3余南北10町余」で、多摩川の洪水にも巻き込まれる土地柄であり、土質は川に近い側では砂混じりとなっていたという[8][9]

今井は北端で上小田中と、東端では二ヶ領用水を境として小杉市ノ坪と、南端では木月と、西端では下小田中と接していた[8]

歴史

要約
視点

中世以前

当地では条里制が行われたと推定されており[6]、また隣接する小田中や井田は平安末期に稲毛本庄関連の文書で登場している[8]。ただ、当地が文献に登場するのは1559年永禄2年)の「小田原衆所領役帳」で、「稲毛庄木月郷今井やけへ方」とある[8]

江戸時代

今井が1村として確立したのは江戸時代に入ってからであり[10]、その当時から天領旗本領が入り乱れていた[11]。なお、天領と筒井氏領は1705年宝永2年)に増上寺へ寄進され[8]、以降は同寺領と勝部氏領となったが、増上寺領は「御仏殿領」と「新御仏殿領」に二分されており、今井村には名主が3人もいる状況となった[11]。村は、正保年間の「武蔵田園簿」で2683斗あまり、「元禄郷帳」では309石2斗あまり、「天保郷帳」では309石3斗あまり、幕末の「旧高旧領取調帳」では308石9斗あまりというように推移していた[8]。「新編武蔵風土記稿」では家数40軒[9]。水利としては二ヶ領用水やその分流を用い[8]、悪水は渋川へと流されていた[12]。水田が多くを占めており[11]、幕末には渋川に設けた水車による白玉粉作りも行われた[13]

当地は将軍鷹狩を行う御鷹場に指定され、新しい寺社や家屋敷を建てることも禁止されるなど、厳しい環境下に置かれていた[14]。また、鷹場へ向かうために、二ヶ領用水に幕府が橋を架けていたが、生類憐れみの令により鷹場が廃止された結果、幕府の手が入らなくなり、村だけでは維持もままらなくなってしまった[14]。一時は勧進により橋が復旧したこともあったが、生類憐れみの令の廃止により鷹場が復活したことで、幕府から命令が降り、橋を修築することとなった[14]。ただ、今井村だけでは負担が過大となることもあり、関東郡代まで持ち込まれる争いの結果、中丸子市ノ坪も人足を出すこととなった[14]。また、1707年宝永4年)の富士山噴火では、当地も火山灰で大きな被害を受け、幕府から御救金が支給されたが、その額は決して十分なものではなかった[15]

明治以降

明治以降、当地は行政上住吉村中原町川崎市と推移していった。その間も当地は農地であったが、二ヶ領用水沿いの道が橘樹郡道に指定されたことで、沿道に商店が形成された[13]。また、北方を南武鉄道が通過したことで、村が分断されることとなった[4]大正末期からは、農地での栽培が盛んとなった[4]。川崎市編入後に行われた耕地整理により、「今井」を冠した4町が設置され、大字としての今井はわずかに残るのみとなっていた[5]

地名の由来

「今」は新しいという意味、「井」は井戸に限らず湧水や溜池といった水利を意味し、全体では「新しい用水により開かれた村」というような意味になると考えられる[8]。中世以降に多く見られるようになり、東国に多い傾向が見られる[8]

沿革

小字

今井には、地租改正以降、次のような小字が存在した[16]。なお、一部の町名はこの小字からではなく、通称名から採られている[17]

北耕地
今井上町
中央耕地
今井仲町今井南町の各一部
西耕地
今井西町
南耕地
今井仲町・今井南町の各一部
巽耕地
今井南町の一部。東急東横線の高架下に残存していたが、住居表示の実施に伴い今井南町に編入された[5]
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施設

  • 南武鉄道線(現南武線) - 当地に駅はなかった。
  • 今井神社 - 村内の神社が合祀された[12]
  • 大乗院 - 今井で唯一の寺院であった[18]

脚注

参考文献

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