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今川満範

南北朝時代から室町時代初期の武将 ウィキペディアから

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今川 満範(いまがわ みつのり)は、南北朝時代から室町時代初期の武将今川貞世(了俊)の末子。新野殿とも呼ばれる。ただし、了俊の息子ではなく一族ともされる[1][2]

概要 凡例今川 満範, 時代 ...

生涯

室町幕府第3代将軍足利義満より偏諱を受けて満範と名乗る。

建徳元年/応安3年(1370年)に九州探題に任命された父に従軍、文中2年/応安6年(1373年)3月には父の命を受けて肥前高来郡に赴いた[2][3]天授2年/永和2年(1376年)5月に離反して南朝へ転じた島津氏久への対抗策として薩摩大隅日向の総大将として派遣され、肥後相良前頼を始め南九州の国人衆の協力を取り付けながら島津氏の掃討を進め、大隅国人禰寝久清らを勧誘しつつ、前頼の本拠地人吉から氏久の居城・日向志布志城への侵攻ルートにある日向庄内(現在の宮崎県都城市)の三俣院へ進軍、8月に三俣院に到着した[4][5]

9月には氏久の叔父樺山資久が籠る日向小山城を落として日向高城から移り、島津氏攻略の準備を整えた。小山城から氏久の従弟北郷義久樺山音久兄弟が籠る日向都之城を攻撃目標にしたが、国人がなかなか参陣しないため都之城を包囲出来ないでいた[6]。翌天授3年/永和3年(1377年)9月に氏久が北朝へ復帰、10月に南九州国人一揆が結成されるなど情勢が変転した後、天授4年/永和4年(1378年)3月に氏久と決裂した父が大隅国人に三俣院の満範陣所へ向かうよう軍勢催促した。この催促で冬頃に国人が集結してようやく12月に都之城を包囲したが、翌天授5年/康暦元年(1379年)3月に援軍に来た氏久軍に蓑原の合戦で大敗、下財部方面(現在の鹿児島県曽於市)へ退却、大隅姫木城の陥落もあって南九州の戦線は後退した[7][8]

同年に名和慈冬(または各和慈冬)が南九州に入り、天授6年/康暦2年(1380年)に三俣院へ進出して持久戦・掃討作戦を行い都之城包囲網を再構築すると、呼応して庄内に再出陣し周辺の掃討・拠点占拠などに取り組んで包囲網強化に尽くした。弘和元年/永徳元年(1381年)7月には末吉城岩川城を攻略して志布志城と都之城の連絡を絶った[9][10]。しかし元中2年/至徳2年(1385年)に相良前頼が南朝へ寝返ると南九州国人一揆は崩壊、南九州の国人衆が反今川方に寝返る中、慈冬は翌元中3年/至徳3年(1386年)までに了俊の命令で薩摩へ移動、庄内戦線は崩壊して南九州の今川氏の影響力は消滅した[11]。その後南九州の活動は兄の尾崎貞兼に替わったようで、貞兼は応永元年(1394年)に日向の島津方の国人と戦っているが、満範の消息は不明[12]

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脚注

参考文献

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