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伊藤敏博
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伊藤 敏博(いとう としひろ、1956年8月26日[1] - )は、日本のシンガーソングライター。新潟県直江津市(現・上越市)出身で、西頸城郡青海町(現・糸魚川市)育ち。新潟県立糸魚川高等学校卒業[1]。血液型はAB型。日本国有鉄道(国鉄)職員時代に発表した「サヨナラ模様」のヒットで知られる。
来歴
高校卒業後、日本国有鉄道金沢鉄道管理局(現・JR西日本金沢支社)に就職し、北陸本線(現・えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン)親不知駅運輸係、富山車掌区列車掛を経て同車掌区車掌として勤務。車掌区在職中に製作した「サヨナラ模様」が1981年のヤマハポピュラーソングコンテスト・第21回つま恋本選会でグランプリを獲得し、70万枚を売り上げる大ヒットとなった[2]。現在までの全作品の売り上げ枚数は200万枚に達する。
デビュー後もシンガーソングライターとして活動する傍ら、引き続き富山車掌区の車掌として城端線、氷見線、富山港線、高山本線、神岡線、北陸本線の列車に乗務したことで「車掌さん歌手」「シンガーソング車掌」として話題を呼んだ[3]。歌番組には電車の中や駅から出演したことから、伊藤目当ての多くの乗客を集めた。また、「青春18のびのびきっぷ」(現・青春18きっぷ)のキャンペーンソングを歌うなど、国鉄のPRにも貢献したが、国鉄の副業規定禁止の規則に則り、テレビ出演など全てノーギャラであった(ただし、印税収入は受け取れた)[4]。
各種テレビ番組(主に歌番組)への出演時には駅構内などからの中継が頻繁に行われた。金沢鉄道管理局が企画したイベント「伊藤敏博と歌の旅」で、車内でライブを行ったこともあった[3]。
国鉄分割民営化に伴う職場環境の変化で、1985年から休職して全国でコンサート活動に取り組む[5]。国鉄最後の日となった1987年3月31日付で、国鉄を退職した[5]。
退職後は新潟県西頸城郡青海町(現・糸魚川市)で家業の漁業を手伝いながら音楽活動を続け、のち富山県射水市に居を構えて活動に専念。現在も北陸地方を拠点に活動を続けている。
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ディスコグラフィ
要約
視点
シングル
デュエットシングル
アルバム
フル・アルバム
ミニアルバム
ベスト・アルバム
作詞・作曲
- 射水市立太閤山小学校校歌(作詞・作曲)
タイアップ
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出演
ラジオ
現在
- 伊藤敏博的 歌の万華鏡(とれたてワイド朝生! (北日本放送))に内包のコーナー、毎月第1・3水曜、10:25 - 10:35)
過去
テレビ
特別番組
- エントリーナンバー24
北日本放送は、国鉄に就職し車掌として勤務しながらも音楽に情熱を傾ける当人の生活ぶりを取材し、生まれ育った親不知の風土・家族・音楽仲間とのかかわりあいの中から、音楽的感性がどのように培われたかを描写しつつ制作して放送した。このドキュメンタリー番組『エントリーナンバー24』は、放送ライブラリー(神奈川県横浜市中区の横浜情報文化センター内に設置)に保存されており、同ライブラリーにて視聴できる。
(なお、番組タイトルの"エントリーナンバー24"は、1981年のヤマハポピュラーソングコンテスト・第21回つま恋本選会に於ける当人の参加者番号だったものである)
脚注
関連項目
外部リンク
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