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会田照夫
日本の元プロ野球選手 (1947-2021) ウィキペディアから
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会田 照夫(あいだ てるお、1947年6月5日 - 2021年2月22日)は、埼玉県春日部市出身のプロ野球選手(投手)。アンダースロー投手であった。
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来歴
要約
視点
プロ入り前
小学6年から野球を始め、中学3年の時に遊撃手から投手に転向[1]。
上尾高等学校ではエースとして1964年秋季関東大会に進むが、1回戦で市銚子高に延長10回サヨナラ負け。翌1965年夏の甲子園県予選でも準々決勝に進出するが、大宮高校に敗退し甲子園出場はならなかった。高校の1年上に山崎裕之、同期に江田幸一がいる。
卒業後は高校時代の監督である野本喜一郎に引き連れられ、当時は東都大学野球リーグ二部に低迷していた東洋大学に進学。1年生の秋季リーグでは国士舘大戦でノーヒットノーランを記録し、同季に二部優勝。入替戦で芝工大を降し、5年ぶりに1967年春季リーグから一部昇格を果たす。一部でもエースとして奮闘するが初優勝には届かず、1968年春季リーグの3位が最高成績であった。一部リーグでは東洋大の通算全73試合のうち64試合に登板し、21勝32敗、防御率2.59、272奪三振。大学同期には外野手の細川昌俊らがいる。
卒業後は三協精機に進み、1970年の都市対抗では電気化学に補強され出場。1回戦で日本生命に延長12回の熱戦の末に敗れたものの好投を見せた[2]。同年の産業対抗では全試合に先発、決勝に進み丸善石油の久玉清人、五月女豊(日本石油から補強)と投げ合う。延長10回裏、秋元国武(日本石油から補強)にサヨナラ2点本塁打を喫し敗退するが、同大会の敢闘賞を獲得した[3]。この大会中に行われたドラフト会議でヤクルトアトムズから8位指名を受けており入団。同期指名には山下慶徳(1位)・若松勉(3位)・杉浦享(10位)・倉持明(12位、入団せず)らがいる。
プロ入り後
1971年は開幕から一軍に上がり、5月5日に初先発、広島の白石静生と投げ合い初完投勝利。しかし5月20日の巨人戦では広野功に9回裏、代打逆転サヨナラ満塁本塁打を浴び敗戦投手となる[1]。6月24日には大洋の鬼頭洋に投げ勝ち初完封を果たす。その後も先発として起用され同年は6勝5敗、規定投球回(22位、防御率3.76)にも達する。
1972年は球筋を他球団に研究され低迷、中継ぎに回った。
1976年は開幕第3戦で井原慎一朗をロングリリーフし初勝利、好投が認められ先発に復帰する。8月25日には中日から5年ぶりの完封勝利を記録した。同年は10勝9敗、防御率3.61(リーグ8位)の好成績を残す。
1977年も先発陣の一角として起用され、9勝9敗、防御率4.29(リーグ17位)を記録した。
1978年のリーグ初優勝にも貢献するが、日本シリーズでの登板はなかった。
引退後
家業の材木業を継いだ。
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詳細情報
年度別投手成績
表彰
- 月間MVP:1回 (1976年8月)
記録
- 投手記録
- 初登板:1971年4月11日、対大洋ホエールズ2回戦(川崎球場)、8回裏から3番手で救援登板・完了、1回無失点
- 初先発登板・初完投・初勝利・初先発勝利・初完投勝利:1971年5月5日、対広島東洋カープ1回戦(明治神宮野球場)、9回1失点
- 初完封勝利:1971年6月13日、対大洋ホエールズ8回戦(明治神宮野球場)
- 初セーブ:1974年5月30日、対中日ドラゴンズ9回戦(明治神宮野球場)、7回表無死から2番手で救援登板・完了、3回1失点
- 打撃記録
背番号
- 18 (1971年 - 1974年)
- 12 (1975年 - 1980年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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