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僧兵

日本の古代後期から中世・近世初頭にかけて存在した僧形の武者 ウィキペディアから

僧兵
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僧兵(そうへい)とは、日本古代後期から中世近世初頭にかけて存在した僧形の武者である。

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興福寺の僧兵(春日権現験記
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僧兵の姿の再現、1895年

概要

京都奈良の大寺院の雑役に服する大衆(堂衆)が自衛武装したもの。法師武者あるいは僧衆、悪僧というが、それを江戸時代以降「僧兵」と呼称した言葉である。ちなみに悪僧の「」は悪党の悪と同じで「強い」という意味合いである。主に寺社勢力に所属する武装集団である。その風貌は絵巻物などに描かれ、裹頭(かとう、頭を包む布)や、高下駄薙刀などが特徴とされる。髪は剃っていなかった可能性が高い。なお、これに対し、神社に所属する武装集団を神人(じにん)という。また、日本以外の仏教国家にも嵩山少林寺のように僧兵として武装集団を組織する仏教僧の集団がおり、広義には武装した宗教集団を指すこともある。その場合はヨーロッパ騎士修道会も含まれることがある。

僧兵や神人が活躍した時代は社会が乱れる一方で、広大な寺領神領を経営する立場にある寺社は、盗賊のみならず、国府権門在地領主らの武装勢力など、さまざまな勢力との紛争を抱えることとなった。よって境内と荘園の治安維持や他勢力への対抗のため、他の荘園と同様に寺院・神社も武装することになった。

平安時代末期には強大な武力集団となり、興福寺延暦寺園城寺(三井寺)、東大寺などの寺院を拠点として、寺院同士の勢力争いや、朝廷摂関家に対して強訴をくりかえした。特に、興福寺(南都)は衆徒(奈良法師)、延暦寺(北嶺)は山法師、園城寺は寺法師と呼ばれた。宗教的権威を背景とする強訴は僧兵の武力以上の威力をもち、しばしば朝廷や院を屈服させることによって、国府や他領との紛争を自らに有利に解決させた。また寺社同士の抗争も激しく、しばしば焼き討ちも行われた。延暦寺と園城寺(「山門」と「寺門」)の抗争などが著名である。白河法皇は、自分の意のままにならないもの(天下の三不如意)として「賀茂川の水(鴨川の流れ)・双六(の目)・山法師(比叡山の僧兵)」を挙げており、僧兵の横暴が朝廷の不安要素であったことがうかがえる。

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紙本著色天狗草紙(延暦寺巻の部分)、13世紀

以仁王の挙兵では平家とも争う。『平家物語』の武蔵坊弁慶などにも、その描写がみられる。源平の争乱の時には熊野水軍を取り仕切っていた熊野別当にたいし双方から政治的な取引がなされた例などが著名である。

室町時代に、かつて義円と名乗り天台座主だった足利義教が、僧兵の軍事力と粗暴さを熟知しているため、延暦寺討伐に動き出して大規模の弾圧を実施した(後年の織田信長も同様のことをやっている)。

各地の有力寺社が軍事力を保持する傾向は1585年から1588年(天正16年)にかけて出された豊臣秀吉による刀狩令まで続いた。

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思想的背景

院政期以降、(戒律)・禅定ヨーガ)・三学のうち、慧学のみを重んじ、戒・定の実践を軽視する風潮が強まり、天台宗においては本覚思想として現れた[1]。本覚思想は、「凡夫を即時的に如来と同一視し、罪や悪を恐れず修行も無用」とする議論を特徴とした[1]。比叡山延暦寺の僧兵はこれにより己の蛮行を正当化しており、『平家物語』では、「罪業本ヨリ所有ナシ。妄想顚倒ヨリ起ル。心性源清ケレバ、衆生即仏也。」と謳って清水寺焼き討ちの暴挙に出る姿が描かれている[2][1]

主な僧兵団

参考文献

関連文献

関連項目

外部リンク

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