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全国高等学校野球選手権東京大会
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全国高等学校野球選手権東京大会(ぜんこくこうとうがっこうやきゅうせんしゅけんとうきょうたいかい)は、1915年(第1回大会)および1923年(第9回大会)から1973年(第55回大会)まで東京都(1943年6月30日以前は東京府)を対象に行われた、全国高等学校野球選手権大会(1947年以前は全国中等学校優勝野球大会)の地方大会。
1974年(第56回大会)から東西2代表が認められ、東東京大会と西東京大会が編成された。一つの都道府県を対象とする地方大会の消滅は、1959年(第41回大会)から南北2代表が認められ、1958年(第40回大会)が最後となった北海道大会に次いで2例目、本州では最初で唯一の事例となっている(なお、記念大会などでは神奈川県大会や大阪府大会などが東西や南北に分けられて2代表制となる場合があるが、例外的な事例である)。
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概要
要約
視点
第1回大会
全国中等学校優勝野球大会の主催者だった大阪朝日新聞社(大朝)が規定していた全国大会出場資格は地方大会で優勝することだったが、そのような大会がない場合は、西日本では大朝が地方大会を主催・後援した[1]。対して、東日本では1911年に野球害毒論を展開した東京朝日新聞社(東朝)が地方大会の主催・後援を一切せず、全国大会開催の告知も大朝と東朝では新聞紙面の費やし方が全く異なっていた[1]。
東朝の不関与もあって、関東7府県を対象とする地方大会を行えず、1915年3月に武侠世界社の主催で行われた、東京府の8校によるトーナメント形式の都下中学野球優勝戦の優勝校に全国大会出場権が与えられた。変則的な付与の仕方であるが、参加希望が秋田県の1校のみだったため、臨時で秋田県の他の2校と試合を行い、優勝した参加希望の学校に全国大会出場権が与えられた、主催者も後援者も存在しない、秋田県の3校による東北大会[1]に比べれば、大会そのものは至ってまともであり、参加校数も単独代表となった兵庫大会の7校より多かった。なお、東京代表は全国大会で兵庫代表に勝ったが東北代表に敗れている。
第2回大会・第3回大会(関東大会)
→「全国中等学校優勝野球関東大会」も参照
1916年(第2回大会)から関東7府県を対象とする関東大会が編成され、1917年(第3回大会)まで東京府勢は関東大会に参加。他に茨城県勢・神奈川県勢も参加した。第2回大会・第3回大会とも東京府勢が優勝し、第2回大会は全国大会でも東京府勢が優勝した。
第4回大会から第8回大会(京浜大会)
→「全国中等学校優勝野球京浜大会」も参照
1918年(第4回大会)から関東大会には栃木県勢と千葉県勢も参加するようになったが、同年から東京府と神奈川県を対象とする京浜大会が編成された。京浜大会も東京府勢が5回とも優勝した。なお、第4回大会は全国大会が米騒動のため中止となった。1922年(第8回大会)は、京浜大会の参加校数が8校に半減した一方、静岡県勢が参加していた東海大会の参加校数が24校に増加していた。
第9回大会から第55回大会
1923年(第9回大会)から東京府を対象とする東京大会と、神奈川県と静岡県を対象とする神静大会が編成された。参加校数が10校を下回っていた時期に単独代表が認められた東京大会だったが、数年後から参加校数が急増し、1940年(第26回大会)の参加校数は60校に達した。
東京大会は全国一の激戦区となり、1973年(第55回大会)の参加校数は170校に達し、同年2位だった大阪大会の123校を大きく上回っていた。北海道の南北2代表制導入は、参加校数の多さに加えて面積の広さという理由があったが、面積が狭い東京都の2代表制の導入について、当時の日本高等学校野球連盟(高野連)は難色を示していた。しかし、当時東京都高等学校野球連盟副会長だった島岡吉郎らが高野連を説得し、1974年(第56回大会)から東東京大会と西東京大会が編成されることとなった[2]。
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歴代代表校
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学校別優勝回数
脚注
関連項目
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