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加藤昌利
日本の野球選手、野球審判員 (1935-1985) ウィキペディアから
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加藤 昌利(かとう まさとし、1935年5月10日 - 1985年5月9日[1])は、兵庫県洲本市生まれのプロ野球選手・審判員。
来歴・人物
洲本高校では1953年の春の選抜に初出場。四番打者として、エース北口勝啓(のち明電舎)とバッテリーを組み勝ち進む。決勝では片岡宏雄のいた浪華商を完封で降し[2]、淡路島に優勝旗をもたらした。チームは「瀬戸内少年野球団」と渾名される。北口以外のチームメートに遊撃手の志貴正視(のち法大)がいた。
1954年に期待されて近鉄パールスに入団[1]。1955年には控え捕手として一軍に定着し、3年目の1956年に原勝彦に代わりレギュラー捕手となる[1]。翌年は故障もあって出場機会がなく、1958年に外野手に転向[1]。1959年に捕手に復帰し、開幕からレギュラーとして起用され90試合に先発マスクを被る。しかし故障の影響もあって翌1960年から外野手に再転向、1961年には左翼手の定位置を得て87試合に先発出場。1962年には捕手、外野手を兼ねて起用されるが、1963年に出場機会が減少し、同年限りで現役を引退した。
引退の翌年パシフィック・リーグの関西審判部に入局[1]し、審判として野球生活を続けていたが病を患い1984年シーズン終了後に休養。1985年5月9日現役のまま死去した[1]。49歳没。
1977年にパ・リーグが審判員袖番号を採用しているが彼が死去した年までつけていた番号は6だった(6は1986年から東利夫がつけている)。また、選手時代のチームメイトには斎田忠利・村田康一・牧野伸といった後の審判仲間がいた。
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詳細情報
年度別打撃成績
背番号
- 10 (1954年 - 1963年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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