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加藤正二 (野球)
日本の野球選手 (1914-1958) ウィキペディアから
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加藤 正二(かとう しょうじ、1914年3月3日 - 1958年8月17日)は、香川県出身のプロ野球選手(投手、内野手、外野手)、大学野球指導者。実弟の稲垣定雄も元プロ野球選手[1]。
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来歴・人物
旧制高松中学時代に甲子園大会に2度出場[2]。中央大学では首位打者を4度獲得。1937年秋に記録した打率.577(26打数15安打)は現在でも東都大学野球連盟記録になっている[3]。
1939年に名古屋軍に入団。1940年に入営するが[1]、復帰した1943年に4本塁打で本塁打王を獲得。1948年に球団代表の赤嶺昌志が辞任に追い込まれると、後を追って、小鶴誠らと共に退団し、永田雅一が結成した大映球団に所属し大映球団が東急フライヤーズに合流する形で急映フライヤーズに移籍した。
1949年に金星スターズが永田雅一によって買収され大映スターズとなり、そのチームに小鶴誠らと共に移籍。1951年は助監督、1952年から1953年まで打撃コーチを兼任した。1952年9月には5試合連続本塁打を記録。1953年限りで現役を引退した。
引退後は大映の打撃コーチを経て中央大学硬式野球部監督に就任。1958年の春季リーグ戦で優勝[4]、全日本大学野球選手権大会で準優勝[5]に導いたが、同年8月17日に肝臓がんで亡くなった[6]。
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詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- 名古屋(名古屋軍)は、1944年に産業(産業軍)、1946年に中部日本に球団名を変更
年度別投手成績
タイトル
- 本塁打王:1回 (1943年)
記録
背番号
- 5 (1939年、1943年、1946年 - 1947年)
- 25 (1948年)
- 6 (1949年 - 1952年)
- 35 (1953年 - 1954年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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