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南船場

大阪市中央区の町 ウィキペディアから

南船場
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南船場(みなみせんば)は、大阪府大阪市中央区町名および地域名。現行行政地名は南船場一丁目から南船場四丁目。

概要 南船場, 国 ...

概要

現行住居表示の南船場は1丁目から4丁目まであり、東横堀川から堺筋までが1丁目、三休橋筋までが2丁目、御堂筋までが3丁目、西横堀川(現在は埋立。阪神高速1号環状線北行き)までが4丁目となる。

4丁目が高感度なショッピングエリアとなっており、ファッション誌などで「南船場」と紹介される場合は通常4丁目を指す。元々は繊維問屋街として発展したが、産業構造の変化で衰退しつつあった1990年代前半、オーガニックビルなどいくつかの新しい建築が話題を集め、デザイナーなどが集まり出した。1990年代後半より4丁目には心斎橋アメリカ村などから店舗が移転、さらに20歳代後半以上向けの高級衣料店やカフェレストランが次第に集まり始め、高感度な地区として認識されるようになった。さらに御堂筋や長堀通沿いに海外の高級ブランドの路面店が集まり、南船場はその地位を確立した。

2000年前後に若者向け商業地区となった点で、堀江などと共通する点はあるが、堀江が当初東京のセレクトショップなど大阪外部の店舗が集まったのに対し、南船場は大阪の地元資本による衣料やカフェなどの出店が目立つこと、また堀江にはない高級ブランド店の存在など、堀江に比べて客層の年齢がやや高いことが挙げられる。

心斎橋筋が縦断する3丁目は、心斎橋筋北商店街、丼池筋商店街のように旧来の格安の衣料店や衣料問屋などが主体であるが、御堂筋や長堀通に面して高級ブランド店が立ち並び、レストランやギャラリーなども増えつつある。2丁目・1丁目は、目覚ましく発展した4丁目・3丁目に続く発展エリアとして注目され、カフェやプライベート施設が隠れるように多数存在している。

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町域の変遷

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南船場地域の地図
(『大阪圖(元祿十六年)』)

本来の南船場は、船場のうち本町通以南(本町を含む)を指す。江戸時代の大坂三郷では南組に属した。

明治に入り三郷から四大組に改編された際、船場は当初全て東大組に属したが、1870年明治3年)に順慶町通以南(初瀬町・浄国寺町・順慶町5 - 1丁目を含む)の所属が南大組に変更された。以降は南区時代を通じて境界変更はなく、1982年昭和57年)に南区が「南船場」の住居表示を実施したこともあって、近現代では順慶町通以南を指す場合が多い。宮本又次は順慶町以南が南区で、これを南船場とみるべきであるが、しかし北久太郎町以南をもって南船場とみる方が景観からいって妥当としている[5][注釈 1]

順慶町通以南の南船場では、1872年(明治5年)に以下の町名に改編された。

  • 順慶町通4 - 1丁目 ← 初瀬町・浄国寺町・順慶町5 - 1丁目
  • 安堂寺橋通4 - 1丁目 ← 北勘四郎町・安堂寺町5 - 1丁目
  • 塩町通4 - 1丁目 ← 南勘四郎町・車町・塩町4 - 1丁目
  • 末吉橋通4 - 1丁目 ← 長堀平右衛門町(西横堀川以東かつ長堀川以北)・長堀10丁目(長堀川以北)・長堀心斎町(同左)・長堀次郎兵衛町(同左)・長堀橋本町
  • 横堀7丁目 ← 五幸町

1982年(昭和57年)に南船場の町名に改称されたのちも、各通りの名称として使用されており、末吉橋通は現在は埋め立てられた長堀川跡まで拡幅されて長堀通となっている。

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町並み

中船場から南船場にかけて明治期の景観は、防火のための低い二階に狭い窓であり、屋号を染め抜いた紺の暖簾であり、上げ店、結界、軒の長い尾垂であった。火災や改築による瓦礫を狭い道路に埋めたために道路は凹凸がはげしく、往来の度に丁稚車の車軸がきしんだものであった。板車(ベカ車)も古い大阪の風習で、大八車は大阪ではあまりなかった。

小間物屋、呉服屋、文具屋は嵩高い荷を背負っていた。水桶を板車に積んで売りに来る水屋、台箱持参の町髪結いが往来し、竹笠で角帯、紺前掛に白足袋、輪棒鼻緒の雪駄をはく丁稚さんなど、今は見られぬ風俗が繰り広げられていたのである。

久宝寺町からは家並も小さくなり、問屋などの店も少なくなっていた。そして更に博労町になると小売商店が多かった。順慶町以南は明治2年から3年まで東大組に属していたこともあったが、大体、南組・南大組・南区に属し、船場とはいいながら、寧ろ島之内の色彩の濃い地帯となっていた。島之内でも旧道仁小学校区、堺筋から東はやや船場の感じに近い、わりに物堅い商人の町だった。

安堂寺橋通りは地金問屋が多く、塩町通りの夜などは静かなよい町であった。この筋は巨商の隠居家や仕舞屋風の旧家が並び、その間に長い軒を垂れた大小の商店が一斉に表戸をおろして、そこに星の光がかすかに投げかけられていた。こうした情景は古都大阪の気分をはっきり浮き出していた[7][8]

歴史

要約
視点

横堀

西横堀の東岸に横堀材木屋があった[注釈 2]。とりわけ横堀四~六丁目あたりには色々の問屋があったが、材木屋も多かった。材木の売買は一名立売ともいって、浜地に陳列して売る。大阪の立売は初め、立売堀で行い、後、西横堀に移って明治に及んだ。そんな関係で立売堀に対し、呼応して西横堀の東側にも多数の材木商が軒を並べていた。しかしながら大正4年に立売堀の市場が廃止せられ、これに代わって境川運河市場(大正7年廃止)や千島町市場が発展すると共に、西横堀筋の材木屋も西方に移動した[10]。土佐堀通横堀筋西角に旧町名継承碑がある。

順慶町

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歌川広重『浪花名所図会 順慶町夜見世の図』

順慶町通は筒井順慶の屋敷があったことに由来し[注釈 3]、江戸時代には新町遊廓へ至る新町橋が架けられ夜市で賑わった。『摂津名所図会大成』巻之十三には「当所の夕市は浪花の一奇観として四時とも絶ゆることなし黄昏時より内店出舗万燈をてらし己が種々に品を飾りてこれを商ふ」と記されている。心斎橋の賑わいもこの順慶町の夜店と関係をもっていたもので、江戸時代心斎橋筋の中心はこの心斎橋筋と順慶町との交叉する辺りであった[12]

寛永12年順慶町と新町とをつなぐ新町橋が架けられた。名称の由来は新町の廊へ通う通路であることから名付けられ、かつて新町の廊を瓢箪町と呼んだので瓢箪橋とも呼んだ。所在は西横堀に架かり四ツ橋の一つ北の橋であった。明治期には大きな鉄材の橋に改築された[13]。新町橋東詰一丁東の辻の、井戸の辻の井戸は一名「足洗井」といわれた。井戸の辻は新町通三丁目、問屋橋筋の一筋西の角にもあった。井戸の辻の井戸は遊女が身請され、首尾よく十年の苦界をつとめ上げて、廓を出る時にここで足を洗ったので、足洗の井戸と呼んだ。これを「門出もんで」と呼び新町遊廓ではものものしい式になっていた。朋輩の女達は餞別の宴をひらき、歌俳諧の贈答をもし、衣装道具の記念わけ、飾り駕籠の迎えなど、綺羅をかざるものであった[14]

順慶町井戸の辻に「すし常」という寿司屋があった。明治27、8年に開業し、鯖の代わりにこのしろを使った。このこのしろを二枚におろして片身をしゃりの上にのせると尾がぴんとはね上がり、ボートの形によく似ていた。ポルトガル語ではボートのことを「バッテラ」いい、このこのしろ寿司は「ばってら」と名付けて売り出されるようになった。やがてこのしろが値上がりしたのでを使うようになったが、それでも「ばってら」という名前はそのまま呼び続けられたという。

小説家山崎豊子の生家小倉屋山本は、新町橋東詰で創業嘉永元年といわれている。小倉昆布に伝わる暖簾の意味は、小説『暖簾』にいかんなく表現されている。なお、小説『ぼんち』は足袋問屋の若主人を描いているが、著者の談によると十合そごう(まえは「そおご」で「そごう」ではない)をモデルにしたという[15]

順慶町四丁目には足袋問屋商亀岡徳太郎の亀岡たびの店があった。当時大阪には亀岡たびを名のるものが多く、新町通や阿弥陀池にもあったが、順慶町の亀岡たびはそれとは少しまた別格であった。亀岡家は大阪電燈、日本火災保険、大阪礦油、日本紡績、大阪鉄道、尼ヶ崎紡績、日本綿花その他多数の会社の重役をつとめ巨万の富を擁した。亀岡徳太郎は明治19年12月大阪府区部会議長として当時の知事建野郷三に市区改正の計画を請う建議をなしている。これが大阪市区改正公議の初めであって、これから大阪市の都市計画の実施がはじまったという。明治27年4月から同32年3月まで大阪商業会議所副会頭をつとめた。

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株式会社稲畑商店
『大大阪画報』

堺筋には大阪商業会議所会頭をつとめた稲畑勝太郎の株式会社稲畑商店があった[注釈 4]。稲畑勝太郎は明治20年仏国留学からの帰朝後、京都織物会社に入社して技師長となり、同23年に退社、同年10月に京都府西陣にて稲畑染料店をはじめ、同30年大阪の順慶町通二丁目51番地に進出した。そして従来の各種人造染料のほかに紡績・染料用諸機械ならびに香料・雑貨・洋酒・薬品などを海外より輸入し、営業網を拡大したのである。大正7年6月株式会社稲畑商店社長に就任し、のち商号を稲畑産業株式会社と改めた。昭和12年3月までその社長をつとめた。大阪商業会議所会頭をつとめ貴族院議員にも勅任された[17]

順慶町三丁目には丹平商会の本店(丹平薬房)があった。また、大正13年には旧本社跡の心斎橋筋二丁目に薬局と文化施設を設けた洋館(丹平ハウス)が建ち、大正15年に赤松麟作の洋画研究所が開設され、昭和5年には安井仲治をリーダーに大阪心斎橋を拠点とした『丹平写真倶楽部』が結成されている[18][19][20][21][22]

河内洋画材料店は、大正9年中之島にあった吉村商店(現・ホルベイン)から河内俊が独立し、心斎橋筋順慶町に創業した。当初は写真の暗箱を扱ったが、大正末頃に河内洋画材料店に改名した。一時、八幡筋の西へ移転し、昭和初期はそこを卸部に、心斎橋筋一丁目に本店を開いた。「画人印」の商標デザインは堀寅造による。小出楢重藤田嗣治東郷青児などの画家が来店した[23]

昭和8年、順慶町三丁目心斎橋筋に大阪画廊が開かれた。もとはロンドンのニュートン絵の具の日本代表事務所が開いた画廊で、神戸の神戸画廊(鯉川筋画廊)と提携して画家展覧会開催の便宜を図った[24]

心斎橋の喫茶ドンバルは順慶町の心斎橋筋にあり、隣は古書肆鹿田松雲堂の心斎橋店であった。ドンバルでは昭和13年、藤田嗣治、東郷青児を顧問に二科会前衛芸術家たちが設立した九室会の大阪支部(吉原治良、井上覚造、石丸一、難波架空像ら十名)の例会が開かれた[25]

他、明治期には憲兵屯所があり塀ごしの桜が知られていた[26]。順慶町通八百屋町筋東入北側に旧町名継承碑がある。

安堂寺町通

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油掛の地藏
『絵本御伽品鏡』

安堂寺の称は安曇あずみ寺の訛伝であるといわれている。太古はこの辺りは長汀曲浦の地で安曇江あずみえと称した。明治5年に安堂寺橋通に改称された。安堂寺町通には金物屋が古くより多かった。釘やはりがねやその他多くの金物商が集まっていた。安堂寺町一丁目の十字街には、「油掛地蔵」と呼ばれる地蔵尊があり[注釈 5][28][29]大平洋戦争時には戦災を免れ、安堂寺橋通板屋橋筋角に現在も祀られている[30]

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五龍圓
『浪花諸商独案内』

心斎橋筋の安堂寺町通には売薬屋の浮田桂造五龍円があった。開店は『大阪商業史資料』によると寛政2年とあるが、享和年間ともいわれている。明治以前はこの家の南の方格子の内にて日々練薬を搗く音がしたといわれている。明治期の浮田桂造は大阪財界にても活躍した。明治21年天満紡績株式会社の創設に加わり、その他事業にも関係した。また大阪商業会議所の会頭でもあった。公的方面にも才能をのばし、明治6年戸長を拝命してより、後南区長の要職にあり、また明治24年7月より同43年3月まで区会議員としてあり、明治25年2月には衆議院議員にあげられ、国政に参して貢献した[31]

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岩本栄之助

大阪市中央公会堂を建てた岩本栄之助は、明治10年安堂寺橋通2丁目(109番屋敷)の両替商銭屋(銭栄)の岩本栄蔵の二男として生まれた。生家は間口六間、通り庭があり、入口の店の間には結界を置き、番頭が三、四人いたという。明治44年5月父の遺訓と実母てゐの素志に基づき、金壱百万円を出して、公衆の便益に供するため大阪市内にて公会堂を建築し、これを市に寄付することにした。これは外遊中外国における寄付行為を眺めての事であった。ところが竣工に先立つ二年前、第一次世界大戦の影響を受け岩本栄之助は苦境となり、公会堂の完成を待たず、大正5年自らその命を断った。 

宮本又次は岩本栄之助の事業を称え、

公会堂は実に多くの富豪の心付かぬ以前に岩本栄之助一個の力で建設したもので、毀誉褒貶の論議のうちに巨財一百万両を投げ出して、あくまで堅固な初一念を貫徹させたのである。昔文化の頃島の内の一町人淡路屋太郎兵衛が独力勧進の結果、四天王寺の伽藍復興を成就した信念の強さと比べて好一対の美談といわねばならぬ。
宮本又次『船場』

と述べている。

また、織物界に名高い龍村平蔵もまた安堂寺橋通の出身で、岩本栄之助とは竹馬の親友であった。龍村の家は仕舞屋であったが、初代大阪市長田村太兵衛とは親類であって、伯父にあたった。その本家は代々砂糖商であった[32]

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山本藤助商店
『大大阪画報』

帝塚山学院高等女学校を開校した山本藤助は安堂寺橋通1丁目10番地に居を構えていた。明治28年京都府商業学校を卒業し、同35年に山本家にはいり、家父の営業である鉄鋼商及び船舶運送業を継承して、名を藤助とあらためた。大正7年組織を改め、株式会社山本藤助商店及び山本汽船株式会社を設立し、社長として業務に精励した。大阪商業会議所議員となり、大阪市会議員、衆議院議員として活躍した。各種の実業団体に関与して寧日なく、常に公共事業に私財を投じた。とくに育英事業に力をいたし、帝塚山学院の創設には最も尽力した。そして大正15年4月に私財を投じて帝塚山学院高等女学校を開校した。また大阪貿易語学校偕行社付属小学校にも巨額の寄付をなし、その他公共のために尽くした功績は大であった[33][34]

ほか、明治20年には京都の写真機材輸入・製造販売店桑田商会の支店が心斎橋筋安堂寺町南入に置かれた。明治30年に大阪支店は本店となり、商店階上は、明治37年創立のアマチュア写真倶楽部『浪華写真倶楽部』が本拠としていた[35]

安堂寺橋通丼池筋西入北側に旧町名継承碑、同筋南東角に橋本宗吉蘭学塾『絲漢堂』の碑がある。

塩町通

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蘆間薬師・蘆間池
『難波名所 蘆分船』(左)大阪砂糖取引所(右)

塩町通3丁目の内である旧車町にはかつて御堂があり、弘法大師の作という薬師仏を祀って難波薬師または蘆間薬師と呼んだ[注釈 6][37]。蘆間池のあった所であるが、堂は他に移り池は明治7年(1874年)に埋められた。池は一名丼池といったとも伝える。そのため同地辺りを丼池と俗称した。蘆間池は古歌にも見えている勝区であり、丼池筋にあった芦池尋常小学校の名もこれに由来する。

車町はかつて芝居町と呼び、寛永3年安井九兵衛芝居遊所道頓堀設置許可を得て、道頓堀に芝居町が形成される以前は、新町遊郭と⻄横堀川を隔てた東側の勘四郎町・芝居町(南勘四郎町・⾞町)のあたりに芝居⼩屋がかけられたという[38][39][40]。勘四郎町[注釈 7]は芝居町とも呼ばれ、女歌舞伎が演じられた上方歌舞伎発祥の地である。寛永3年の道頓堀への芝居小屋移設後、これらは道頓堀五座(浪花座・中座角座朝日座・弁天座)として発展した[41][42]

この辺りは割合に静な所で義太夫の師匠が多く居を構え、船場とはいいながら、忙しいことそれ自体を生命とするような問屋の町ではなかった[43][44]国学尾崎雅嘉は青年時代は塩町通に住み、壮年時代は梶木町(現・北浜三~四丁目)に移り住んだ[45]。また「三軒家云うても家が仰山にある。片町にも両側に家がある。塩町のおっさんは水くさい奴や」という落語まがいの言い伝えがある[46][47]

塩町通には砂糖問屋が多く、1925年大正14年)に大阪砂糖取引所が設置された。大正4年から同11年までの間、塩町通二丁目に大阪音楽大学を創立した永井幸次の大阪音楽学校が開設された[48][49]。ほか、天賞堂大阪支店[50][51]、旧文栄堂の前川合名会社[52]帝國キネマ本社[53]などがあった。

昭和11年、塩町通の心斎橋ビルディングの「流行の粹社」からファッション雑誌『粹』が刊行された。巻頭では洋画家国枝金三が東京の粹(いき)に対して大阪の粹(すい)を主張する本誌は、大丸そごう高島屋三越松坂屋など百貨店の流行ファッションに触れるほか、久保田出吉の「心ぶら考見学」の一文がある[54]

塩町通板屋橋筋東入北側、旧大阪市立南高等学校グラウンドに旧町名継承碑、大阪市渥美尋常小学校跡の碑、板屋橋筋塩町通上る東側に渥美高等家政女学校趾の碑がある。

末吉橋通

平野郷町の豪商末吉孫左衛門は御朱印船貿易や銀座頭役として活躍した家柄である。末吉橋西詰角屋敷がその旧邸で、末吉孫左衛門町の名はそれに由来した。末吉橋は孫左衛門が在邸中通行人の便をはかって架設したものである。元は孫左衛門橋と呼んだが、後に末吉橋と呼ぶようになった。

末吉橋西詰より鰻谷東の町に通ずる長堀川に架している安綿橋は総年寄の安井九兵衛と綿屋某が道路の便のために架けたものという[55]

1913年発行の『大阪市史 第一』 に「大正十二年十二月二十日本市土木部工事中東横堀川末吉橋九之助橋間に於て「大坂橋・天正十三年乙酉年七月吉日」の銘ある擬寶珠一個を發掘せり、其由緒等未だ明ならず」とあり、場所の比定はできないが、天正13年には東横堀川に架かっていたと考えられる「大坂橋」の存在が確認され、東横堀川の開削は天正13年に始まり、文禄3年の惣構築造に際て、本格的な工事が行われたことが推測される[56][57]

堺筋長堀通上る東側に旧町名継承碑がある。

心斎橋

心斎橋は江戸時代初期に山城伏見の岡田心斎が、長堀川が掘られた時に架けたと伝えるが確かではない。これは、元来「心斎町」に由来するのではないかといわれる。

安永9年(1780年)、大阪市中の町橋135橋を大きさによって6級に分類したときには、心斎橋は第3級として、317橋の中にあげられていた。しかし、なんといっても心斎橋筋という繁華街に架かっているため、著しく著名な橋になってきた。なお、心斎町というのは長堀心斎町と江戸時代にはいったもので、これは後の心斎橋筋とは異なる。長堀の北側と南側の心斎橋と三休橋の間、つまり鰻谷の浜側と北側の長堀橋通の中この北と南の二カ町が心斎町である。

明治5年(1872年)、心斎橋は新たに市内最初の吊鉄橋として架かった。この鉄橋は名所絵の好題材となった。明治42年(1909年)には現在の石橋に架けかえられ、大阪最初の石造橋として喧伝された。新しい心斎橋には瓦斯灯がついており、気品のある瓦斯の灯が水におち、華美な広告燈の裡に超然とした気品を示していた[58]

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心齋橋通書肆
『浪速叢書 第八 攝津名所圖會大成』
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駸々堂心斎橋店

心斎橋筋は「松屋町や菓子屋寺町や坊さん」とならび称せられた本屋街で、五十何軒もの書肆が軒をならべていた[注釈 8]

明治の中頃、心斎橋筋周辺に並んでいた書肆は、大概地方の小売店を相手にする卸問屋で、小売店は数えるほどしかなかったという。この本屋(卸問屋)は、いわゆる丁稚番頭制度、暖簾分けの商慣習のなかで成立していた。心斎橋筋の本屋と道修町薬屋の丁稚はもっとも掛引を教えこまれた双璧であったとされ、地方からの卸小売から注文がくると、店にないものは注文帳に記入して同業仲間の糶(せり)物に丁稚・小僧たちは出された。売る方は少しでも高く売ろうとし、買う方は少しでも安く買おうとする訳で、丁々発止の掛引がなされたという。そうした様相は岡島真蔵「明治時代の心斎橋筋の本屋」(『上方』五〇号、一九三五年二月)などに確認することができる[60]

大阪の本屋は読本の版元として栄え、その頃は、活版ではなく、木版銅板時代で、彫り起こしに非常な手数を要したものであった。大阪の版元は、著者に潤筆料を出し、高価な板材を求め、彫工に刻り立たせるなど、出版の事に関しては不熱心であった。やがて、鉛活字印刷となり、読本の読者らは西洋紙にプリントされた実録物に赴いた。それでも大阪の書肆は苦境には立たず、出版は東京に移っても、販売の方で活躍した。大阪書肆の中、覇気のある人々は政治的に動き、その結果が新聞教科書類に活路を開くことになったのである。しかしそれと共に西横堀から阿波座へと本屋は移っていき、心斎橋筋は書肆の町ではなくなった。それでもまだ戦前には、そうした面影を偲ぶものがあった[61]

心斎橋筋の主な書肆一覧[62][63]
  • 備後町四丁目 朧曦堂 梅原亀七
  • 備後町四丁目 宝文軒(館) 吉岡平助
  • 備後町四丁目 松恵堂 小谷卯三郎
  • 安土町四丁目 積善館 石田忠兵衛
  • 安土町四丁目 松雲堂 鹿田静七
  • 本町四丁目 忠雅堂 赤志忠七
  • 本町四丁目 尚書堂 辻本秀五郎
  • 本町四丁目 宝玉堂 岡島真七
  • 南本町四丁目 文淵堂 金尾為七
  • 唐物町四丁目 偉業館 岡本仙助
  • 北久太郎町四丁目 積玉圃 柳原喜兵衛
  • 北久宝寺町四丁目 開成館 三木佐助
  • 南久宝寺町四丁目 文栄堂 前川善兵衛
  • 博労町四丁目 嵩山堂 青木恒三郎
  • 博労町四丁目 明善堂 中川勘助
  • 安堂寺町 秋田屋 田中太右衛門

心斎橋から南船場につながるあたりは江戸時代から大阪の出版の中心地で、前川善兵衛の前川合名会社のように書籍商から楽譜音楽書出版に特化する業者が多かった。心斎橋北詰にあった明治創業の阪根楽器店も昭和期まで楽譜出版を続けた。これら大阪の古い楽譜出版社はさかんに長唄俗曲邦楽の古曲を五線譜に採譜した。大阪洋画壇草創期の画家山内愚僊は、文栄堂時代の前川楽器店(心斎橋筋南久宝寺町通上る)発行のヴァイオリン楽譜の表紙絵をデザインしており、和風な雰囲気の中にアール・ヌーヴォー様式を反映した装飾性を示していた。邦楽にも洋楽にも通じていた阪根楽器店の「日本名曲集」は大正2年に出版され、昭和期まで版を重ねた。当時のヴァイオリン教授もまた邦楽曲をテキストに用いることが多かったが、このような試みからは、既存の邦楽曲の五線譜化から西洋音楽を普及してゆこうと考えていた様子が窺われる。情報面では石原時計店が専任の編集者を置いて音楽雑誌『音楽月刊』を発行するなど西洋音楽普及の覇気は高かった。

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三木楽器本社

音楽啓蒙でもっとも成功したのは、貸本屋から楽器店に転身して音楽出版を手掛けるようになった三木佐助の三木楽器店である。三木開成館はヴァイオリン独習用や学校向けのすぐれた教科書を次々に出版し、中でも永井幸次と田中銀之助の共編による「女子音楽教科書」は全国の女子学校で用いられるベストセラーとなった。またミュンヘンの版元から翻刻許可を得て出版した「コールユーブンゲン」は、今日まで版を重ねて音楽教育の現場で愛用されている。教育唱歌の発行も三木の専売の観があり、地理教育を目的とした「鉄道唱歌」は音楽教材の枠を超えて大ヒットした。

三木楽器店から遠くない塩町通には前川合名会社があり、永井幸次が創立した大阪音楽学校があった。大阪音楽学校から角を曲がると四階建ての阪根楽器店があった。その三階にはピアニスト澤田柳吉の主宰する大阪洋楽研究所があり、ピアノのほか声楽楽典を教授していた。後に南久宝寺町三丁目に移ったが、南船場の一帯が音楽学校の町でもあったことが偲ばれる[64]

船場には古くから時計屋があったが、ことに心斎橋に多く集まっていた。明治以後、北出作次郎・渋谷史春・尚美堂・服部時計支店・生駒権七などが旧東区内にあり、石原時計店ももとは博労町にあった。その中心斎橋筋には石原・渋谷・北出の三大時計店の建物が高くそびえていた[65]

船場における心斎橋筋の商店街は本町通から順慶町通までが「せんば心斎橋筋商店街」、順慶町通から長堀通までは「心斎橋筋北商店街」となっている[66]

南船場の橋

(※明治5年現在、本町以南より[67]

  • 安堂寺橋
  • 末吉橋
  • 新町橋
  • 上繋橋(四ツ橋)
  • 安綿橋
  • 板屋橋
  • 長堀橋
  • 中橋
  • 三休橋
  • 心斎橋
  • 佐野屋橋
  • 炭屋橋(四ツ橋)
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世帯数と人口

2019年(平成31年)3月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]

さらに見る 丁目, 世帯数 ...

人口の変遷

国勢調査による人口の推移。

1995年(平成7年) 1,487人[68]
2000年(平成12年) 1,838人[69]
2005年(平成17年) 2,252人[70]
2010年(平成22年) 2,677人[71]
2015年(平成27年) 3,559人[72]

世帯数の変遷

国勢調査による世帯数の推移。

1995年(平成7年) 808世帯[68]
2000年(平成12年) 1,092世帯[69]
2005年(平成17年) 1,592世帯[70]
2010年(平成22年) 1,821世帯[71]
2015年(平成27年) 2,539世帯[72]
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事業所

2016年(平成28年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[73]

さらに見る 丁目, 事業所数 ...

施設

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オーガニックビル
  • 大阪南船場郵便局
  • 大阪南船場一郵便局
  • 大阪市立南幼稚園(西隣は旧芦池小学校跡地)
  • 南船場会館
  • 大阪かばん会館(鞄嚢会館)
  • 大阪写真会館
  • 砂糖会館ビル
  • 小倉屋山本本店
  • 心斎橋筋商店街
  • クリスタ長堀
  • 大阪観光局
  • 浜崎健立現代美術館
  • 活字資料館

寺社

史跡

  • 橋本宗吉絲漢堂跡
  • 大阪書籍館跡
  • 渥美高等家政女学校跡の碑
  • 大阪渥美小学校跡の碑
  • 心斎橋欄干と瓦斯灯
  • 中橋顕彰碑
  • 長堀橋跡記念碑
  • 小西来山句碑
  • 上島鬼貫句碑

近代建築

(出典:[74][75][76][77]
順慶町
  • 川崎貯蓄銀行大阪支店 ─ 設計:矢部又吉 1931年(昭和6年)
  • 稲畑商店 ─ 大正~昭和期
  • 黒田生々堂 ─ 大正~昭和期
安堂寺橋通
  • 芦池尋常小学校 ─ 1924年(大正13年)
  • 原田産業本社 ─ 設計:小笠原鈅 1928年(昭和3年)
  • 三菱商事大阪支店 ─ 1930年(昭和5年)
  • 第一銀行南支店 ─ 設計:西村好時 1933年(昭和8年)
  • 明治製菓大阪支店 ─ 設計:森山松之助建築事務所 1935年(昭和10年)
塩町通
  • 渥美尋常小学校 ─ 1924年(大正13年)
  • 大阪砂糖取引所 ─ 1925年(大正14年)
  • 前川合名会社 ─ 1925年(大正14年)
末吉橋通・長堀通
  • 心斎橋
    • 鉄骨トラス橋 ─ 1873年(明治6年)
    • 石造眼鏡橋 ─ 1909年(明治42年)
  • 長堀橋 ─ 1912年(明治45年)
  • 末吉橋 ─ 1927年(昭和2年)
  • 日本簡易火災保険本店ビル ─ 設計:早良俊夫 1931年(昭和6年)

パブリックアート

  • 『少年と少女』リン・チャドリック
  • 『ブーツの娘』佐藤忠良
  • 『星の旅人』新宮晋
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河川

交通

鉄道

道路

高速道路
国道
主要地方道

その他

日本郵便

ギャラリー

関連項目

参考文献

  • 船越政一郎『浪速叢書 第八 攝津名所圖會大成』浪速叢書刊行会、昭和3年
  • 宮本又次『船場』ミネルヴァ書房(風土記大阪第1集)1960年
  • 香村菊雄『大阪慕情 船場ものがたり』神戸新聞出版センター 1976年
  • 橋爪節也『モダン心斎橋コレクション ─メトロポリスの時代と記憶─』国書刊行会 2005年
  • 前川佳子、近江晴子『船場大阪を語りつぐ』和泉書院 2016年

脚注

外部リンク

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