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塚本昭一

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塚本 昭一 (つかもと しょういち、: Shoichi Tsukamoto1960年8月1日[1] - ) は、石川県出身[2]の元オートバイ・ロードレーサー1992年の全日本ロードレース選手権 TT F1クラスチャンピオン[3]

経歴

要約
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2輪レースキャリアはサーキットではなく、高校2年生の時にモトクロスで開始した[4]。初期はヤマハ・YZ250に乗っていたが、1979年にホンダ・CR125Rを購入。しかしこのマシンにトラブルが発生し、急遽借りたカワサキ・KX125が自分の走りに合っていたことから、以後カワサキとともに歩むレース人生となった[5]。ノービスで優勝を経験しジュニアライセンスに昇格、1982年までカワサキのライダーとして「チームグリーン」よりモトクロスに参戦していたが、足の靭帯損傷を負い、後遺症を心配したチーム監督より引退を勧められ、一度モータースポーツから離れる[6]

オートバイを楽しみたい気持ちは無くならず、ロードレースを1984年からプライベーターとして開始、1985年まで激戦区のノービスF3クラスにヤマハ・FZ400で挑戦していた[7]。1986年シーズンまで入門級であるノービスクラスに参戦。同年夏の「鈴鹿4時間耐久ロードレース」に向けて、モトクロス時代からの縁であるチーム・グリーンがライダーを探していたためそのテストに参加、カワサキ陣営に「復帰」する。鈴鹿4耐には少数派となっていたカワサキ・GPZ400で参戦し15位で完走を果たす[8]1987年はジュニアTT-F3クラスにカワサキ・GPZ400Rで参戦。参加車両はホンダ・NSR250Rヤマハ・TZR250FZR400が大勢を締める中、カワサキ車では塚本が唯一の入賞ポイント獲得者であり奮闘を見せた[9]

1988年もカワサキ・チームグリーンの一員として全日本ロードレースのジュニアTT-F3クラスに参戦。夏の鈴鹿4時間耐久レースにも参戦するが[10]、ライダーであると同時に、8時間耐久ではカワサキのメカニックとしてタイヤ交換などを行いピット作業をサポートしていた[11]。同年のジュニアF3でのランキング4位獲得の成績により、翌年からの国際A級昇格を決める。

1989年より国際A級に昇格、カワサキのワークスライダーとして契約を結ぶ[12]。4月22-23日にフランスブガッティ・サーキットで行われたFIM世界耐久選手権ル・マン24時間耐久ロードレース」に多田喜代一、宗和孝宏との日本人トリオで参戦し、3位表彰台を獲得する快挙を達成[13]。同年は7月末の鈴鹿8時間耐久レースでも前田忠士とのコンビで4位に入賞した[14]。4ストローク750ccマシンでの参戦が多いが、1990年にはカワサキが新規開発した2ストローク250ccマシン「X-09」で全日本250ccクラスにも参戦歴がある。

1991年より、自身で「250よりこっちの方が性に合っている」と語る[15]750ccのTT-F1クラスに参戦。マシン開発ライダーであり、同じくカワサキ・ワークスから参戦する宗和孝宏、マイケル・ドーソンが勝てるマシンを作るのが任務であったが、塚本自身も自分がレースに参戦し続けるため実戦で好結果を残す必要があった。結果的にランキング3位宗和(3勝)、4位ドーソン(1勝)、5位塚本とカワサキ勢好調の下支えをする。また、ブリヂストンのレーシングタイヤ開発担当ライダーでもあり、同社製タイヤの進化にも貢献する。

1992年北川圭一とのカワサキ対決や、ホンダの武石伸也とのバトルを勝ち抜き、シーズン4回の優勝を挙げて全日本TT-F1チャンピオンを獲得した[16]。翌1993年は最終戦MFJグランプリ筑波で1勝を挙げランキング4位、1994年はランキング7位と全日本のトップライダーとして活躍。1997年までカワサキワークスからスーパーバイククラスに参戦。1999年-2000年は鈴鹿200kmレースにスポット参戦し入賞。鈴鹿8時間耐久ロードレースには10回の出場歴を持つ[4]

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レース戦歴

全日本ロードレース選手権

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  • 太字はポールポジション。

鈴鹿8時間耐久ロードレース

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脚注

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