トップQs
タイムライン
チャット
視点
1993年の全日本ロードレース選手権
ウィキペディアから
Remove ads
1993年の全日本ロードレース選手権 (1993ねん の ぜんにほんロードレースせんしゅけん) は、1993年(平成5年)3月14日の鈴鹿サーキットで開幕し、同年10月31日のMFJグランプリ (筑波)で閉幕した1993年シーズンの全日本ロードレース選手権である。
1993年の全日本ロードレース選手権 | |||
前年: | 1992 | 翌年: | 1994 |
1993年シーズン
要約
視点
GP500cc
この5年ホンダ・ワークス (HRC)のトップライダーとして参戦した伊藤真一と、前年の全日本GP500チャンピオンを獲得したダリル・ビーティーが世界選手権 (WGP500/現MotoGP)フルエントリーとなり、HRCは全日本にその後任となるライダーを立てなかった。一方、ホンダ・NSR500を使用するサテライトチームのブルーフォックスがA級ルーキーの17歳・阿部典史を起用し500ccデビューとなった。
HRCも当初、ブルーフォックス監督の岩崎勝が500cc経験のない阿部を抜擢するのを聞いて驚き、懐疑的だった。当の岩崎も'93年は阿部をTT F1クラスにデビューさせる計画だったが[2]、「彼(阿部)のマシンのスライドコントロールを見ていて、これは500に乗せなければいけないという思いが沸いた」ため、当時のHRCの社長を説得。その結果、「話が通ると思っていなかったけど、可能性を感じたのかHRCがNSR貸与の話をOKしてくれた」という経緯を経て異例の500ccデビューとなった。
開幕戦鈴鹿では、YZR500に乗る本間利彦が500での3年目にして初優勝を挙げる。2位には500デビュー戦の阿部が入り、期待以上の結果を残した[3]。岩崎監督曰く、「500のマシンに載せられているんじゃなく、3戦目でもう自分のものにしていた。」という成長を見せた阿部は、次戦SUGOでレース中盤に藤原儀彦とケビン・マギーの追撃に合うも初優勝を達成、3戦目の筑波では本間利彦、マギーをレース中の速さで上回り連勝、ポイントリーダーに立った。第7戦SUGOで3勝目を挙げて以後リーダーの座を譲ることなく、A級初年度・500cc初年度にして全日本500チャンピオンを獲得した。18歳での全日本GP500チャンピオン獲得は、藤原儀彦が1987年に記録した21歳での獲得を更新し、史上最年少であった。
しかし、全日本選手権におけるGP500ccクラスの存続はシーズン終了後に不透明となった。12月10日のMFJ常任委員会にてGP500クラスのあり方について議論され、1994年度の開催については見送る決定が下された。1981年以来最高峰クラスとして開催されてきたが、プライベーターの参戦減少が同委員会では毎年問題視されていた。最高峰クラスとしてファンからの注目度は大きく、500ccクラスの参戦台数が少ないことはモーターサイクルスポーツそのものの盛衰を表してしまうという意見が多数を占め、全日本での500ccクラスは1993年の開催が最後となった[4]。
この発表では、廃止ではなく休止であり、今後3年をめどに参加台数が常に15から20台以上という環境が可能と判断されれば再開を目指す意向も表明されたが、以後の再開はされず、世界選手権においても結果的に2002年を最後に2ストローク500ccレーサーは姿を消した。1994年シーズンからは市販車改造カテゴリーの頂点であるTT F1クラスを、FIMの世界選手権に準じた「スーパーバイク」クラスと変更、全日本選手権シリーズのトップカテゴリーとした[5]。
SUGOフォーミュラ
8月29日SUGOで開催されたスーパーバイク世界選手権で併催された特別レースとして、GP500マシンとTT F1マシンが混走で対決する「SUGOフォーミュラ」が20周で開催された。予選では500の岩橋健一郎がPP獲得、2番手には0.2秒差でTT F1の武石伸也が並び、クラスは違うブルーフォックスの2台が分け合った。決勝では阿部典史、藤原儀彦、本間利彦の2スト500勢がスタートを決め、それをRVF750の武石が追うも馬の背で転倒しリタイヤ。以後はトップ3をYZF750の永井康友がNSR500の岩橋とともに追走。13周目からトップに立った本間は最後まで集中を切らさず、”夢の対決”を制した。
250cc
前年トップ3の原田哲也、岡田忠之、青木宣篤がWGP250ccフル参戦を開始したため、全日本250はトップ争いの顔触れが大きく変わった。ホンダワークスは、前年なかなか結果を出せず苦しんだ宇川徹が岡田の後任としてタイトル獲得が使命となった。ホンダサテライトのカップヌードル・ホンダ(テクニカルスポーツ関東)は、青木拓磨がワークスマシンNSR250での参戦となり、タイトルを目指す。ヤマハワークスは難波恭司がTZMの開発をしながらのエース格となり、スズキは沼田憲保がRGV-Γ250の熟成を進める。また、開発途上ではあったがカワサキも250ccマシンを全日本に投入し、国内4メーカーが揃うレースもあった。このほかの参戦車両では、WGPで勝利を挙げて日本車に匹敵する戦闘力を見せていたイタリアのアプリリア250をチームDAYTONAが使用し、宮崎敦が第8戦富士でポールポジションを獲得。これは全日本選手権での外国車初PPとなった。
開幕戦はヤマハの難波がTZMで完勝、第2戦ではNSRの青木拓磨がA級初優勝。第3戦も青木が連勝しポイント有利となるが、第4戦の予選中に転倒し鎖骨を骨折。青木が先行したタイトル争いの流れは、このレースでA級昇格後初優勝を挙げた宇川へと傾く。WGP参戦を終えた岡田、原田がスポット参戦したシーズン終盤も表彰台フィニッシュを重ね、ランキング2位となった青木に30ポイント以上の差でシーズンを制した。
ワークスマシンが多数を占める中、高速コースの第8戦富士を市販レーサーRSで勝利した匹田禎智や[6]、スズキの250を担う沼田も開幕戦でのポールポジション獲得、そして第9戦鈴鹿ではスズキに250cc初勝利をもたらし、その健闘が注目された[7]。7月の第7戦SUGOでは、スペインカップに参戦し将来のWGP参戦を目指しているケニー・ロバーツJrが来日し、チーム・タイラからTZ250Mでスポット参戦。予選では初コースと初マシンで下位に埋もれたが、コースに適応した決勝レースでは5位まで追い上げてチェッカーを受け、その能力を垣間見せた。
Remove ads
スケジュールおよび勝者
Remove ads
シリーズポイントランキング
- 最終戦MFJ-GPでは特別ポイントとして入賞者に従来のポイント+3ポイントが与えられる。
GP500cc
- 太字はポールポジション。
GP250cc
- 太字はポールポジション。
GP125cc
- 太字はポールポジション。
TT F1
- 太字はポールポジション。
Remove ads
関連項目
脚注
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads