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大日本国一宮記
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『大日本国一宮記』(だいにほんこくいちのみやき)は、『群書類従』第二輯「神祇部」巻第二十三に編纂されている日本国内の一宮一覧で、室町時代の成立とされる。
諸国一宮の社名、祭神、鎮座地を記した史料は「一宮記」と呼ばれ同種の本が多数存在するが、『大日本国一宮記』はその内の一つである。『大日本国一宮記』自体にも写本が多数存在する。一宮の研究における重要な資料であり、現代においても巡拝や取材する一宮の選定基準とされることがある。[1]
解説
『大日本国一宮記』は、全国67社の名称、祭神と別称、鎮座地が記載され、最後に「右諸国一宮神社如此。秘中之神秘也」との言葉で閉められている。記載神社名や割註から分かるとおり本地垂迹説の影響が見える。また安房国、豊後国では異なる2つの神社を同一社のごとく記載していることから[2]、現地を調査して編纂されたものでは無いことが推測される。
鹿児島神社の割註に「兼右云。」とあることから、吉田兼右の在世である16世紀頃に成立したであろうこと[3]、吉田家あるいは吉田家に近い人物が編纂に係わっていることが推測できる。
写本が多数存在するが、写本同士で内容が若干異なる場合がある[4]。また、『大倭国一宮記』、『日本国一宮記』と題する諸本は内容がほぼ同じで、『大日本国一宮記』の類本と考えられる[3]。
『「一宮記」の諸系統』[3]では、応安8年(南朝の元号では天授元年、1375年)2月24日以前に成立した卜部宿禰奥書[5]『諸国一宮神名帳』と『大日本国一宮記』[6]を比較している。両書を比較した場合、成立が後となる『大日本国一宮記』が記載を改めたとすると、同一社の神名を書き換えている神社19社の内14社が『延喜式神名帳』の記載神名に基づいて訂正されており、また卜部宿禰奥書『諸国一宮神名帳』では陸奥国一宮と豊後国一宮に式外社が記載されていたものが『大日本国一宮記』では式内社へ変更されている[7]。この事実等から『「一宮記」の諸系統』[3]では、選者は『延喜式神名帳』の式内社であることを強く意識して編纂に当たったのではないかと考察している。しかしながら、この改訂が一宮はどこかと言う事実を追求した成果なのか、あるいは政治的意図があったのかは別の検証が必要であるとも同書では述べている。
近世に『一宮記』が参照された際は、『大日本国一宮記』が用いられることが多かった[8]。江戸時代初期の神道者である橘三喜が延宝3年(1675年)から元禄10年(1697年)までの足掛け23年に亘って全国の一宮を巡った際は[9]、『大日本国一宮記』の類本である『吉田一宮記』と『豊葦原一宮記』を携帯して諸国を巡った[3]。また伴信友が天保8年(1837年)に著した『神社思考』[10]では、世の一宮記に書かれている神々は全て『延喜式神名帳』に載っていると記しており、伴信友も『大日本国一宮記』系統の本を参照していたと思われる。
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記載の神社
要約
視点
『大日本国一宮記』には以下の67社が記載されている。記載順や社名、鎮座地は群書類従版に同じ。また、原文では祭神・別称を漢文で記載しているが、ここでは書き下した。
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脚注
参考文献
関連項目
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