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大渕 (掛川市)
静岡県掛川市の大字 ウィキペディアから
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大渕(おおぶち)は、静岡県掛川市の大字。本項では1889年(明治22年)の町村制施行時に同区域に存在した大淵村(おおぶちむら)についても記す。
地理
掛川市南部に位置する。遠州灘に面し、東大谷川の流域にあたる。西で沖之須・西大渕・横須賀、東で浜野・浜野新田・大坂・下土方・上土方嶺向・今滝・上土方旦付新田と隣接する。国道150号、静岡県道69号相良大須賀線が海岸線と平行して横断、静岡県道249号掛川大東大須賀線が東大谷川沿いに縦貫している。1877年に11村が合併して成立した東大淵村の村域を引き継いでいるため、周辺の大字に比べて面積が広い。
大字としての住所表記では「大渕」と記されるが、集落としては「野賀」、「新井」、「中新井」、「岡原」、「浜」、「東大谷」、「野中」、「藤塚」、「雨垂」の9つに大別されている。掛川市の自治区としては、それぞれの集落ごとに野賀区、新井区、中新井区、岡原区、浜区、東大谷区、野中区、藤塚区、雨垂区を形成している。
山岳
- 小笠山 (264.4m)
- 高室山 (29.0m)
- 雨の宮の山 (25.2m)
河川
- 東大谷川
海岸
- 遠州灘
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歴史
- 「旧高旧領取調帳」[4]の記載によると、明治初年時点で現在の大字大渕地内に藤塚村源左衛門方・藤塚村庄左衛門方・大新井村・雨垂村・中新井村・上野中村・犬待坂新田・下野中村・浜村・野賀村・岡原新田の11村が存在し、いずれも横須賀藩領であった。
- 1868年(慶応4年)
- 1869年(明治2年)8月7日 - 府中藩が静岡藩に改称。
- 1871年(明治4年)
- 1876年(明治9年)8月21日 - 第2次府県統合により静岡県の管轄となる。
- 1877年(明治10年) - 11村が合併して東大淵村となる。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により東大淵村が単独で自治体を形成し、城東郡大淵村が発足。
- 1896年(明治29年)4月1日 - 郡制の施行により所属郡が小笠郡に変更。
- 1956年(昭和31年)6月1日 - 大淵村が横須賀町と合併して大須賀町が発足。同日大淵村廃止。大字大渕となる。
- 2005年(平成17年)4月1日 - 大須賀町が掛川市・大東町と合併し、改めて掛川市が発足。
祭り
大渕地域の祭りは三地区に分かれている。
- 三熊野神社
- 東大谷(あずま組)野中(の組)岡原(お組)
- 雨垂天神社
- 藤塚(ふ組)雨垂(う組)浜(は組)新井(あ組)中新井(な組)
- 野賀天神社
- 野賀(の組)
伊勢参り
大渕村は海岸沿いの村であり船での伊勢参りが行われていた。 沿岸の部落で新造船の進水祝いや、大猟祈願のために行われた。漁船の所属の漁師が乗組み、波よけ板をつけたり帆を張り、あとは風任せの船旅=小さな漁船で名にしおう遠州灘の荒波を乗り切るのであるから、時に思わぬ難儀危険に身をさらしたこともあったという。
- 当時参宮した船は次のようであった。
- 新井地区(海徳丸・共進丸・青栄丸)
- 中新井地区(隆清丸)
- 浜地区(若吉丸・大神丸・大正丸)
- 藤塚地区(高吉丸)
- 雨垂地区(住吉丸)
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政治
世帯数と人口
2018年(平成30年)11月30日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
小・中学校の学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[5]。
交通
鉄道路線
バス
道路
施設
教育施設
- 掛川市立大渕小学校
- 掛川市立大渕幼稚園
- おおぶち保育園
公共施設
- 大渕地区センター
- 東大谷公民館
- 野中公民館
- 藤塚公民館
- 雨垂公民館
- 岡原公民館
- 浜区公民館
- 野賀公民館
- 中新井公民館
- 新井公会堂
- 掛川市大須賀歴史資料館
- 掛川市消防本部南消防署
- 掛川市消防団・第十方面・大須賀第四分団
- 掛川市南体育館「し〜すぽ」
神社・仏閣
その他
- 磐田物産
- 川口薬品
- コーニングジャパン
- 山陽色素
- 進士酒店
- 美幸工業
- フランスベッド静岡羽毛工場
- 小原建装
- 古田屋
- ダイナム
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その他
日本郵便
警察
町内の警察の管轄区域は以下の通りである[7]。
参考文献
- 大須賀町誌編纂委員会 『大須賀町誌』 静岡県小笠郡大須賀町
脚注
外部リンク
関連項目
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