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安田秀之
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安田 秀之(やすだ ひでゆき、1967年5月26日[1] - )は、愛知県尾西市(現・一宮市)出身の元プロ野球選手(外野手、内野手、捕手)[1]。
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来歴・人物
プロ入り前
1983年に享栄高校へ入学。2学年上に藤王康晴、1学年下に近藤真市と長谷部裕のバッテリーがいた。1年生だった1983年秋、藤王ら3年生の抜けた秋から新チームで四番打者を託され[2]、2年時の1984年に夏の甲子園に出場した。1回戦からKKコンビのPL学園と対戦し敗退。高校時代通算で47本塁打を記録している[1]。
1985年のプロ野球ドラフト会議で南海ホークスから6位指名を受け入団[1]。
南海・ダイエー時代
プロ1年目の1986年から3年目の1988年までは一軍出場はなかったが、球団名が「福岡ダイエーホークス」に変更された4年目の1989年に一軍初出場を果たす。南海時代の1988年に二軍のウエスタン・リーグ公式戦で3試合に投手として登板した。
1990年オフに監督を務めていた田淵幸一からの指示で、内野手から捕手に転向した。1991年はマイナーリーグA級のサリナス・スパーズに野球留学した。
大型野手として期待されたが、なかなか一軍で出場機会はなく、1995年11月16日に武田一浩・松田慎司との交換トレードで下柳剛とともに日本ハムファイターズへ移籍した[3]。
日本ハム時代
日本ハム移籍1年目の1996年に自己最多の59試合に出場。移籍後は捕手から内・外野手にコンバートされ、特に相手が左投手先発時には右翼手・一塁手でスタメン出場する機会が増え自己最多の3本塁打を放つ。8月25日の対千葉ロッテマリーンズ戦では代打サヨナラ犠飛を打った[4]。
移籍2年目の1997年は落合博満の守備固めとして登場することが多く、45打席ながら自己最多の70試合に出場する。しかし、シーズン終盤に二軍のイースタン・リーグで本塁打王を獲得した西浦克拓が台頭し、ともに右打者で主に一塁と外野を守ることから、安田とはタイプが重なってしまったこともあり戦力外通告を受ける。
中日時代
その後、地元球団である中日ドラゴンズの入団テストを受験して合格、入団する。
移籍1年目の1998年、広島市民球場で開かれた広島東洋カープとのレギュラーシーズン開幕戦では、相手の開幕投手が左腕の大野豊であったことから先発メンバー入りを果たした。また同年は二軍のウエスタン・リーグ公式戦で1イニングのみであるが、投手として出場したこともあった。
引退後
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詳細情報
年度別打撃成績
年度別守備成績
記録
背番号
- 53 (1986年 - 1990年)
- 45 (1991年 - 1994年)
- 22 (1995年)
- 33 (1996年 - 1997年)
- 55 (1998年 - 2000年)
- 117 (2001年 - 2002年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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