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宍戸元続

戦国時代から江戸時代前期の武将。毛利家の家臣。安芸宍戸家14代。安芸五龍城主。宍戸元秀の嫡男。従五位下、備前守。長州藩 ウィキペディアから

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宍戸 元続(ししど もとつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将毛利家の家臣。安芸宍戸家第14代当主。安芸五龍城主。宍戸元秀の嫡男、宍戸隆家の孫。広匡就俊元高らの父。主君の毛利輝元は父方では従伯父、母方では従兄に当たる。なお、当時の文書において苗字の「宍戸」は、「完戸」または「鹿戸」(読みはいずれも「ししど」)と表記されている[3]

概要 凡例宍戸元続, 時代 ...
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生涯

要約
視点

永禄6年(1563年)、毛利氏家臣・宍戸元秀の子として生まれる[1]

天正6年(1578年)の上月城の戦いにおいて宍戸軍を率いて初陣を果たした。

文禄2年(1593年2月5日に祖父の宍戸隆家が死去したため、廃嫡された父・元秀に代わって家督を相続。文禄4年(1595年)には豊臣秀吉により豊臣姓を下賜された。

慶長2年(1597年)から始まる慶長の役では毛利軍として朝鮮に渡海。同年9月の稷山の戦いで毛利軍の先鋒を務め、蔚山城の築城に携わった。同年12月22日から慶長3年(1598年1月4日にかけて行われた第一次蔚山城の戦いでは加藤清正らと共に食料不足の中での籠城戦を戦い抜き、毛利秀元吉川広家らの来援を得て軍に勝利した。この時に元続も武功を挙げ、第一次蔚山城の戦いで功のあった毛利氏家臣を賞した慶長3年(1598年1月25日付の豊臣秀吉朱印状において元続の名(宍戸備前守)が筆頭に記されている[注釈 1][4]

慶長5年(1600年)、石田三成率いる西軍陣営と徳川家康率いる東軍陣営の対立が激化し、ついには家康の会津征伐を契機に合戦となる。元続は主君の毛利輝元が西軍の総大将に祭り上げられることに不安を覚え、吉川広家・福原広俊益田元祥熊谷元直らと談合、反対するも聞き入れられず、止む無く西軍として軍勢を率いることとなる。元続は毛利氏支配下の備中国内において最大の知行高を持っており、備中国哲多郡内で最大の所領を持つ石蟹孫兵衛としばしば贈答のやりとりを行っている等、備中国とのつながりがあったことから備中国や備後国の軍勢を率い、石蟹孫兵衛、赤木忠重赤木元重冷泉元珍和智元盛杉原与七郎等が元続の組に加わった。関ヶ原前哨戦の伊勢安濃津城の戦いにおいて、広家・秀元らと共に勇戦し、東軍の分部光嘉一騎討ちを行い双方負傷するも安濃津城を開城させることに成功する。

しかし肝心の関ヶ原の戦いでは不戦敗となり、毛利氏は周防長門2か国に減封、元続も父祖伝来の地である五龍城を去り、に移住することとなった。後に一門家老の筆頭となり、周防国佐波郡右田[注釈 2]に11,000石を与えられる。

慶長10年(1605年12月14日、同年の五郎太石事件の後に毛利氏家臣団や有力寺社の総勢820名が連署して毛利氏への忠誠や様々な取り決めを記した連署起請文において、最後の820番目に「完戸備前守」と署名している[5]

大坂の陣では輝元・秀元らと相談の上で、弟の内藤元盛に「佐野道可」の変名を名乗らせて密かに大坂城に送り込んだ。戦後にこれが発覚すると、その処理に奔走した。元和元年(1615年)に嫡男の広匡に家督を譲って隠居した。

寛永8年(1631年7月25日に長門国において死去[1]享年69。元続の遺体は宍戸氏の給地である周防国佐波郡下徳地[注釈 3]の龍福山宗円寺にて荼毘に付され、周防国佐波郡牟礼[注釈 4]阿弥陀寺に葬られた[1]

寛永2年(1625年)に孫の宍戸就尚毛利元倶と右田と熊毛郡三丘を交換し、宍戸家は一門三丘宍戸家として続いた。

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系譜

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脚注

参考文献

関連項目

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