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小林淳一

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小林淳一
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小林 淳一(こばやし じゅんいち、1973年3月12日 - )は、栃木県出身の元騎手・現競馬学校教官。

概要 小林淳一, 基本情報 ...

愛称は「コバジュン」。

息子は現騎手の小林凌大、甥(姉の子)も現騎手の水沼元輝[1]

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来歴

要約
視点

中学1年時に宇都宮にある育成牧場で、姉が乗馬をやりたいというのに付き合って一緒に始めたが、最初は馬に好き勝手にやられて、指示を聞いてもらえず、馬が怖かった[2]。そのため乗馬は嫌いであり、騎手という仕事には憧れすらなかったが、育成牧場の職員に背も大きくなかったことから「競馬学校を受験してみないか」と声をかけられて、何となく受験[2]。結果は不合格で、中学卒業後は高校に入学したが、不合格の悔しさから、もう一度受験したい気持ちを親に伝えて、翌年に2度目の受験で合格[2]

1989年に競馬学校騎手課程第8期生として入学し、同期には後藤浩輝上村洋行菊沢隆仁高橋康之橋本美純横山義行吉永護がいる。

1990年にはアイネスフウジンが逃げ切った第57回東京優駿を見学したが、競馬学校から電車で来ると、とにかく観客の数に驚かされた[3]。パドックではどの馬が格好いいなどファン目線での話をしながら、ダービーに乗る先輩騎手の一挙手一投足を見ていた[3]。レースはゴール前の厩舎関係者席で観戦し、ファンファーレと共に地鳴りのような歓声が響き、夢中で見ていたダービーはあっという間に終わった[3]。満員のスタンドから「ナカノコール」が沸きおこると、小林ら8人は言葉を失い、ただ圧倒されていた[3]

入学後は初めての寮生活も特に不自由に感じることは無く、ビデオデッキで録画した番組を同期と休憩時間に見るなど、喧嘩をすることもなかった[2]。減量では特に苦しまなかったが、菓子を持ち込めない代わりに寮の食堂に置いてあった煮干を好きなだけ食べて良かったため、結構食べていた[2]

毎週日曜日の外出が楽しみで、何を食べるかということを一番楽しみにし、電車に乗って色々な所に行った[2]ジェラートが流行っていた時期には「美味しいジェラートが町田にある」ということを聞いて、わざわざ白井から町田までジェラートを食べるためだけに同期と一緒に行ったりもした[2]

実技で思い通りに馬を動かせず、上手く乗れなかったことが辛かった[2]

1992年美浦・佐藤林次郎厩舎からデビューし、3月1日中山第2競走4歳未勝利・ブランドアップ(11頭中4着)で初騎乗[4]を果たすと、同21日の中山第8競走4歳以上500万下でホクトボーイ産駒メジロフェンディーに騎乗して[5]初勝利、4月4日の中山では初の1日2勝を挙げる[6]。秋の福島では10月10日11日に初の2日連続勝利[7]11月8日の第10競走奥只見特別・ナカハマフォードで初の特別勝ち[7]を挙げたほか、カブトヤマ記念ではアンバーシャダイ産駒アサクサハポネス[8]で重賞初騎乗[9]を果たし、15頭中14番人気でシャコーグレイドイナズマクロスに先着する6着と1桁着順を確保[10]

1年目の同年は20勝、2年目の1993年には25勝を挙げ、初年度から2年連続で2桁勝利と20勝台をマーク[11]

フリーに転身した1997年には14勝[11]をマークし、1998年10月18日の福島第5競走4歳未勝利・ミュージックシチーで通算100勝を達成[12]

1999年には自己最多の29勝をマークし、同年から2003年まで5年連続20勝台、2007年まで11年連続2桁勝利を記録[11]

1998年秋からは後藤由之厩舎の騸馬ホットシークレットに騎乗し、1999年には若草ステークスでペインテドブラックを抑えて逃げ切り、セントライト記念5着・ステイヤーズステークス4着に入った[13]

2001年にはオイワケヒカリ主戦騎手として全レースに騎乗し[14]、しっかりと伸びる末脚を武器に、2戦目のダート1800m戦の新馬を勝ち上がる[15]。初芝の水仙賞を4着と好走し、重賞初挑戦となったフラワーカップは直線外からタイムフェアレディとの叩き合いに僅かに及ばず2着に終わる[15]。捲土重来を期したフローラステークスでは平均ペースを4番手で流れに乗っていち早く先頭に立つと[16]、息の長い末脚を繰り出し[15]、中団から出てきたレディパステルとの競り合い[16]に半馬身差勝利[17]。4歳牝馬特別がフローラSに改められた最初のオークストライアルを制し[16]、小林[18]柴崎勇調教師[19]、父ダンスインザダークの重賞初制覇となった[15]優駿牝馬では6番人気で3着テイエムオーシャンと同タイムの5着[20]に健闘したが、オークスを最後にターフを去った[15]

2001年はホットシークレットと同じ後藤厩舎の騙馬で、岩手出身のトウカイテイオー産駒トウカイポイントに騎乗し、新潟で行われたカブトヤマ記念では2着に入った[21]

2002年からは父ホワイトマズル・母父リアルシャダイイングランディーレに騎乗し、2度目の芝で初の長距離戦となるステイヤーズステークスをホットシークレットの4着と好走[22]2003年には中山芝3200mのダイヤモンドステークスを格上挑戦の軽ハンデで逃げ切り[22]、前年のステイヤーズSに続く好走で長距離戦に抜群の適性を示し[23]春の天皇賞路線の伏兵に台頭[24]。日経賞も4コーナー先頭から押し切って重賞を連勝するが[22] [25]、小林にとって最後の重賞制覇[26]となり、天皇賞(春)は9着に終わった[22]

2002年にはホッカイドウ競馬から転入してきたフサイチコンコルド産駒リリーキャスケードの主戦を務め、成島英春厩舎のGI初出走[27]となった阪神ジュベナイルフィリーズは12番人気8着で関東馬最先着[28]となると、続くフェアリーステークスでは5着に入った[29]

リアルシャダイ産駒ハイフレンドトライ[30]2004年6月20日の福島第9競走開成山特別では3コーナー付近から徐々に進出し、直線入口で3、4番手に付けると、直線はダイワフロリダとの競り合いをゴール前でアタマ差抜け出して、芝2600mの日本レコード2分37秒4[31]で勝った[32]2005年のダイヤモンドステークスでは道中後方に控え、直線で全馬横一杯に大きく広がり激しい追い比べの中、同じく後方で脚を溜めていた軽ハンデ馬ウイングランツと共に抜け出す[33]。最内をついてジリジリと脚を伸ばして抜け出しを図ると[33]、外から迫るウイングランツと並ぶようにしてゴールに飛び込み[33]、最後はクビ差競り負けて2着に終わったが、チャクラハイアーゲームに先着[33]。1000万下の条件馬同士のワンツーで[34]、馬単3万8920円、3連単は50万7610円の波乱を演出[33]

2005年10月22日の東京第12競走3歳以上1000万下では16頭中16番人気ゼンノエキスプレスで勝利し、3連単の配当が公営競技史上最高となる18,469,120円を記録[35]

2005年には定年前の加藤修甫厩舎が管理し[36]ロイヤルタッチを父、ミナガワマンナを母父に持つアサヒライジングの主戦を務める[37]。2戦目の未勝利を果敢に先行し、直線で圧倒的人気に推されたショウナンアルスに4馬身差をつけて圧勝[38]。3戦目のサフラン賞では逆に圧倒的人気に支持され、スタートから先頭に立ち、マイペースの逃げからラストもしっかり伸び[39]、追いすがる2番人気グランプリシリウスを3/4馬身退けて連勝[40]。阪神ジュベナイルフィリーズでは雨脚が次第に強まる中、キーレターやサチノスイーティーらを制して強引にハナを切り、レースの序盤はやや速めの流れで縦長の展開となる[41]。リードを保ったまま直線に入り[42]、内ラチ沿いでよく粘ったものの[39]、馬群を捌いて脚を伸ばしたシークレットコードに残り200mで捕らえられ[42]、残り50mでテイエムプリキュア[39]、大外から脚を伸ばしたフサイチパンドラ[42]に交わされて5着に終わる[39]2006年クイーンカップでも逃げて内ラチ沿いを粘り、残り50m地点コイウタに差し切られて2着に終わった[43]

2007年NHKマイルカップでは18頭中18番人気のムラマサノヨートーで道中後方3〜4番手から直線馬群を割って脚を伸ばし[44]、一旦先頭に立ったローレルゲレイロの真後ろから追い込み、外から全てを飲み込んだ17番人気ピンクカメオの3着に入り、当時の重賞最高配当記録となる3連単973万9870円という超高配当の立役者となった[45]

2007年の新潟記念ではトウショウヴォイスでヤマニンアラバスタと共に大外から猛然と追い込んでユメノシルシの2着[46]京王杯2歳ステークスでは14頭中12番人気のドリームシグナルで内のレッツゴーキリシマと叩き合って2着に入った[47]

2012年3月17日の中山第8競走4歳以上500万下・フローラルホールで最後の勝利、同年3月25日の中山第7競走3歳500万下・アルコシエロ(10頭中10着)が最後の騎乗となった[48]

最後の騎乗ではゲート内で隣に入った同期・後藤と握手を交わし、レースでは出遅れて最下位に終わり、小林は「最後に“ケツ”というのも僕らしい。あと1勝して300勝を達成したかったな」と悔しさをにじませた[49]。レース後にはウイナーズサークルで柴田善臣から花束が贈られ、最後は騎手仲間に囲まれて胴上げされた[49]

小学校高学年であった水沼は小林の引退レースを見に行き、沢山の人々に見送られる姿を見て、騎手になりたいと思うようになった[1]

3人兄弟の次男として生まれたも小林の最終騎乗日に応援に訪れ、父の姿に憧れて騎手を目指すことを決意し、2016年に競馬学校に入学、2019年にデビューしている[50]

2012年3月31日付で騎手を引退し、4月1日からは2度もオファーが来ていた競馬学校の教官に就任[51]。現役騎手が引退して競馬学校の教官となるのは徳吉一己蓑田早人横山賀一に次いで4人目となるが、騎手課程卒業の教官は小林が初めてとなる[51]

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騎乗成績

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さらに見る 年度, 1着 ...
  • 100勝 - 1998年10月18日福島5R[52]
  • 200勝 - 2002年11月10日中山10R

主な騎乗馬

その他
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脚注

関連項目

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