トップQs
タイムライン
チャット
視点

小野組

日本の江戸時代の豪商 ウィキペディアから

Remove ads

小野組(おのぐみ)は江戸時代の豪商。小野組の名は明治に入ってからの通称で、初代小野善助に始まり、「井筒屋」を名乗っていた。糸割符商人。数多くあった分家との区別を図るために、その名前から特に「善印」とも称す。幕末・維新にかけて明治新政府に御為替方と称されるほど成長したが、政府の金融政策の急変に対応できず、明治前期に破綻した。

概要

要約
視点

小野家は、初代新四郎則秀が江州高島郡大溝(滋賀県高島市)で、陸羽の物産と上方の物産を交易していたとされる[1]

1662-63年寛文2-3年)ころ次男の主元が盛岡に下り、近江屋を開業し、村井権兵衛を名乗った[2]。盛岡は、1615年頃に盛岡城が完成し城下町が建設されると他領の商人が続々と入ってきて領内の商業活動を牛耳っていた[3]。権兵衛も同郷の近江商人を頼りに盛岡に入り、志和村で酒造業を始めて成功し、砂金を買い集めて京都に送っていた[1]

権兵衛は甥である善助、唯貞、清助の三兄弟も盛岡に呼び寄せた[1]。善助(包教)は1689年に盛岡紺屋町で井筒屋と号して開業、1708年に京都に進出して大店となり、のちに江戸にも進出した[1]。その弟唯貞は叔父の村井権兵衛家を継いで襲名し、1690年に京都に進出して鍵屋と号し、苗字を小野に戻して小野権右衛門と名乗った[1]。その弟清助は権兵衛の婿養子となり、兄善助の紺屋町の店を引き継いだ[1]。それぞれ「善印」「郡印」「紺印」と通称され、小野一族が形成された[1]

小野一族は、上方から木綿・古手などの雑貨を運び、奥州から砂鉄・紅花・紫根を上方に送り、物産交易を営み財を成していった。

京都の井筒屋善助・鍵屋権右衛門らは南部藩からの仕入れ店であったが、1776年安永5年)幕府の「金銀御為替御用達」となり十人組に加入し、御為替名目金を自己の営業資金に流用し、京都では和糸・生絹・紅花問屋を、江戸では下り油・下り古手・繰綿問屋、盛岡では木綿商・古手商・酒造業を営んでいた。江戸の小野組は、日本橋本石町(現日本銀行敷地内)に為替会社を置き、日本橋田所町に油店を持っていた。

1866年1月(慶応3年12月)に明治政府は財源確保のために「金穀出納所」を設けた際に、三井三郎助島田八郎左衛門とともに小野善助を「金穀出納御用達」とし翌慶応4年1月には「出納所御為替御用達」に任じた。[4]

三井組島田組と並び豪商として名を馳せたが、明治新政府による官金預り金の担保に関する急激な規制強化に対応できず、1874年11月に破綻した[5]

小野家

  • 小野新四郎(則秀) - 初代。近江の大溝で開業
  • 小野善五郎(直嘉) - 則秀の長男。大溝の井筒屋2代目。
  • 村井権兵衛(主元) - 則秀の二男。盛岡で近江屋開業。1670年代に「権兵衛酒屋」を始め、それまで濁り酒しかなかった南部藩で初めて上方流の「澄み酒(清酒)」を作った[6]。この蔵は現在岩手県最古の造り酒屋であり、日本最大の杜氏集団である南部杜氏が誕生するきっかけとなった[6]。そのほか、砂金採取、味噌醤油の製造販売、質屋の営業、塩の一手販売、京都の質流れの古着販売など幅広く商って一代で巨富を築き、その後も村井権兵衛家は代々酒屋として発展したが大正時代に没落した[3]
  • 村井善助(包教、1739年没) - 直嘉の長男。盛岡・京都で井筒屋(善印)開業。
  • 小野権右衛門(唯貞、1662-1732) - 直嘉の二男。盛岡近江屋2代目。京都で鍵屋、郡山城 (陸奥国紫波郡)下の日詰で井筒屋(郡印)開業[7][8]
  • 小野善五郎(?) - 直嘉の三男。大溝の井筒屋3代目。
  • 小野清助(嘉品) - 直嘉の四男。盛岡の井筒屋(紺印)開業。

………

  • 小野善助(政房) - 3代目善助
  • 小野善助(包該) - 4代目善助。政房の長男
  • 小野助次郎 - 政房の二男
  • 小野又次郎 - 政房の三男
  • 小野善助(包賢、1831-1887) - 7代目善助。第一国立銀行頭取。破綻時の小野善助家当主
  • 小野三家 - 小野善助家、小野助次郎家、小野又次郎家を指す[9]

………

  • 小野善右衛門(1826-1900) - 京都下鴨村の農家の子・田和長之助として生まれ、10歳より京都井筒屋で長年奉公し、その手腕が評価されて、34歳のとき小野家から西村勘六と名乗ることを許される[2]。その後、小野家大番頭が代々襲名していた善右衛門を勝手に名乗り、1872年に戸籍法ができるや西村善右衛門を本名として登録、その後娘夫婦に西村家を継がせ、自らは小野善右衛門と呼称したことから、一族内に物議が起こり組織に乱れが生じた[2][1]。政商として小野組を興隆に導いた一方、その専横ぶりから小野組の弱体化を招き、破綻の一因を作ったとも言われる[2][10]。甥の小野政吉(小野敏郎の父)を養子とした[2]
Remove ads

小野組転籍事件

要約
視点

1870年(明治3年)、小野屋が本社機能を京都から江戸へ移そうとしたところ、京都府によって為替業務に制限[11]がかけられた。これにより小野屋の業務は支障をきたすようになり、小野屋は少しでも業務を簡潔にするために分家三社と合併、以後、小野組と名称を変える。

Thumb
江藤新平
Thumb
木戸孝允

それでも業務の煩雑さは解決されなかったことから、1873年(明治6年)4月に小野組は京都府庁に対し、転籍を申し出るに至った。小野助次郎は神戸へ、小野善右衛門は東京への転籍を希望したが、京都府庁は転籍事由と時期が不適当であるとしてその届出を処理しなかった[12]。小野組は当時、すでに全国28の支店を持つ大商人であり、租税収入の減少と献納金の喪失は京都府には受け入れがたかった[13]。5月27日、小野組は京都府を相手取った訴訟を京都府裁判所で起こした[14]。京都府側は訴訟の却下を求めたが、裁判所は京都府知参事に対する尋問をおこなないまま、転籍を行うよう京都府に求める判決を6月15日に下した[14]。京都府側は転籍の許認可は行政事務に当たるとしてこれに反論したが、23日に裁判所は上告か受諾かを求める通達を行った[14]。裁判所長北畠治房は司法省に連絡を取っており、司法省内では京都府の姿勢は「違式罪」に当たるという見解が強まった[15]

太政官は司法省の意見を受け、法的には知参事の推問が必要であったとしながらも、案件の緊急性・明白性をもって判決は妥当であるという判断を下している[15]。推問を不要とするという意見は司法卿・参議である江藤新平の主張によるものであった[16]。京都府は転籍を拒否したのではなく、代理人によって届けられたため手続きに時間がかかっていると反論し、裁判所を「公権ヲ口ニ敷キ私意ヲ逞スル」と批判している[16]

8月上旬、京都府裁判所は府知事長谷信篤や権大参事槇村正直を罪に問い、8円から6円の贖罪金を課す判決を下した[16]。京都府側はこれを拒んだが、司法省側は知事や参事の捕縛をも上申し、一部の京都府職員の捕縛も行っている[16]。太政官は大筋で司法省側の意見を認めたが、府知事らの捕縛は認めなかった[17]。しかしなおも強硬な要求があったため、太政官は臨時裁判所の設立を行うこととなる[18]。しかし穏便な解決を目指していた太政大臣三条実美は、江藤に対して妥協的な態度を示していた[19]

京都府は顧問の山本覚馬を上京させ、司法省への反対運動を開始した[20]。さらに長州閥の領袖である木戸孝允の関心を引くことにも成功した。もともと槇村は木戸の懐刀とも呼ばれる存在であり、この頃から京都府は木戸に対して事件の詳細を連絡している[21]。木戸は臨時裁判所の構成が京都府裁判所側に偏向していると指摘し、その是正を勧告した[21]。この意見は山本ら京都府側の意見とほとんど重なるものであった[22]

槇村大参事らの捕縛が太政官側に受け入れられないと知った司法省急進派は、自ら申し出た臨時裁判所における陪審制をも返上する動きに出たが、これは司法卿江藤ですら事前に知らされていなかった[23]。10月9日、臨時裁判所は官員を陪審とする参坐制によって行われることとなった[23]。裁判は10月14日に初審、17日に第二審が行われたが、この際に槇村の言動が不遜であるとした判事側により、槇村が勾留される事態となっている[24]。これを受けて木戸は槇村勾留を許す政府を批判し、長文の上申書を提出した[25]。10月24日には西郷隆盛・江藤らが失脚し(明治六年政変)、翌25日、槇村の勾留もに特命によって解かれた[26]。この動きは司法省のみならず警保寮にも衝撃を与え、国分友諒大警視らが抗議の上申書を提出している。

政変後には大木喬任が司法卿となり、転籍事件の追求を行ってきた司法大輔福岡孝弟らは更迭されたが、転籍事件の裁判は12月10日に再開された[27]。12月30日の判決では、府知事長谷と槇村に有罪が宣告され、40円と30円の贖罪金支払いが命じられた[27]。木戸はこの判決に大いに不満であり、「司法省が法規に反して人民を抑圧している」「司法省の権力行使は法規にもとづいて行われるべき」と、福岡の後任となった司法大輔佐佐木高行宛書簡で述べ、大木と佐佐木による司法省改革を促した[28]

Thumb
築地製糸場の様子を描いた浮世絵。歌川芳虎画。1872年
Remove ads

小野組の破綻

1871年(明治4年)の廃藩置県以後、三井島田・小野三家の為替方は府県方と称し、三府七二県に支店。出張所を置き公金の収支に従事していた。

小野組は為替方であることによって多額の金を無金利で運用して、生糸貿易を手がけ、また1871年には築地生糸所を創立、その後も前橋製糸場をはじめ、長野県各地、福島県二本松などに製糸場を経営し、また、釜石、院内、阿仁など東北各地の鉱山経営に着手した。

生糸取引は古河市兵衛が、為替店は小野善衛門(西村勘八)が統括していたが、1872年(明治5年)、渋沢栄一の仲介によって、三井組と共同で「三井小野組合銀行」(第一国立銀行の前身、現在のみずほ銀行)を設立するが、三井組は独自に金融機関(三井銀行の前身、現在の三井住友銀行ほか)を設立、三井組は規模を拡大した。

小野組は、1873年(明治6年)には、全国に支店四十余、大阪府の外二十八県と為替契約を結び、三井組を凌駕していたが、1874年(明治7年)になって、政府の為替方に対する方針は担保額の引き上げなどの一方的な金融政策の急変によって、小野組は御用御免を願い出て、資金全部を大蔵省に提出して精算をし、1877年6月処分を完了した。岩手県で創県以来、政府の公認を得て、年貢金及び官金の為替方を東京・田所町(日本橋堀留町のあたり)の小野善助の出店である盛岡呉服町の小野善十郎に取扱わしていた。1874年(明治7年)11月20日小野善助は県御用達免除を出願、同27日には盛岡の小野善十郎も同様出願して、県為替方を閉店した[29]。11月22日大蔵省は小野組の官金委託を第一国立銀行に切換え、同組の財産を没収した[30]

1884年9月、小野組の権利義務を移して小野商会を創立し、1897年頃まで営業を続けていたが、その後、解散した。

小野組と盛岡

盛岡に定住し、質屋、酒、味噌・醤油の販売を行い、盛岡・八戸藩の御用商人として御用金を引受け、銭札の通用、尾去沢銅山などにも関与した。盛岡の小野組は、現在の盛岡市肴町(旧呉服町)、「岩手酒類卸株式会社」の地にあった。現在も当時の煉瓦塀の一部が残されている。また、みずほ銀行盛岡支店に隣接して、当時の蔵が一棟のみ残されている。

小野組の破産後、政府為替方として「国立第一銀行盛岡支店」が開かれると、支店長には渋沢栄一の従兄で義兄である尾高惇忠が配されたが、この銀行も破綻した。代わって同じく渋沢が設立に関与した仙台の「国立第七十七銀行(現七十七銀行)」を盛岡に斡旋、岩手県の公金が隣県の宮城県を本拠にする銀行へ流れることに反対して、地元有力者によって「盛岡銀行」が設立された。

なお、盛岡小野組が輩出した人物は次の通り。

Remove ads

参考文献

  • 『岩手県史 第9巻 近代篇 4 岩手県篇(その2)』岩手県、1964年3月30日。
  • 『岩手県史 第10巻 近代篇 5 岩手県篇(その3)』岩手県、1965年3月30日。
  • 下中弘『日本史大辞典 第一巻』平凡社、1992年12月18日。ISBN 4-582-13101-8
  • 笠原英彦明治六年・小野組転籍事件の一考察」『法學研究 : 法律・政治・社会』第58巻第12号、慶應義塾大学法学研究会、1985年、ISSN 03890538NAID 120005947498
  • 菊山正明明治八年の司法改革」『早稲田法学』第66巻第1号、早稲田大学法学会、1990年、ISSN 03890546NAID 120000788444
  • 『名の法をめぐる裁判権対立と参座による決着-明治六年小野組転籍事件をとおして-』小林忠正 2014年
  • 『明治の内政・治安政策と武士の終焉』警察政策学会資料 第121号 2022年
Remove ads

脚注

関連事項

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads