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嶋田信敏
日本のプロ野球選手、コーチ (1960-) ウィキペディアから
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嶋田 信敏(しまだ のぶとし、1960年4月9日 - )は、福井県武生市(現:越前市)出身[注 1](神奈川県生まれ)の元プロ野球選手(外野手)・コーチ、解説者、YouTuber。
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来歴・人物
要約
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日大藤沢高校では2年次の1977年秋季関東大会神奈川県予選で準々決勝に進むが、日大高に敗退。その後も県予選で敗れ甲子園には出場できなかったが、自身は控え投手であった。
1978年に日本ハムファイターズへドラフト外でテスト入団。二軍暮らしが長く、一軍では主に守備固め[注 5]やバント要員、代走で使われることが多かった。
1986年には一軍に定着。
1990年には鈴木慶裕に代り中堅手のレギュラーを獲得、同年は86試合に先発出場し、規定打席には届かなかったものの打率.262、6本塁打の好成績を残す。
1991年には指名打者のマット・ウインタースが外野に回り、大内実の台頭もあってシーズン後半に定位置を失う。
1994年限りで現役を引退。
引退後は堅実な守備能力を買われ、日本ハム二軍外野守備・走塁コーチ(1995年 - 1996年)を務めた[注 6]。
1997年からソニー生命に営業マンとして勤務する[1] 傍ら、テレビ埼玉「TVSヒットナイター」解説者を務めた[注 7]。
1999年は相模原クラブにコーチ兼外野手として所属した[1]。
2003年まで一軍コーチとして外野守備・走塁コーチや一塁ベースコーチを務めた[注 8]。その後、「FULL-COUNT」という野球教室を運営する[16] 傍ら、2005年に北海道放送(HBCラジオ)の野球解説者を務めていた[注 9]。
2004年からはプロ野球マスターズリーグの札幌アンビシャスに外野手として参加していた[注 10]。
2006年春からは高千穂大学硬式野球部の監督を務める[21][注 11]。それに伴い、「FULL-COUNT」の閉鎖および一切の野球評論活動を中止[注 12]。
2007年秋に東京新大学野球連盟2部リーグ3連覇[21]、対杏林大学入れ替え戦も制し[21]、4季ぶりの1部リーグ復帰を果たしている[21]。また、高校時代に控え野手だった戸田亮(のち、JR東日本硬式野球部を経てオリックス・バファローズへプロ入り)に投手転向を命じている[23]。三ツ間卓也投手も後にプロ(中日)入りしている。試合では三塁ベースコーチを務めることもあり、背番号はプロ野球時代の54等を着けていた。
2017年4月14日にはABEMAで配信の横浜DeNAベイスターズ主催試合中継で解説者としての活動を再開している[注 14]。また赤坂見附にUTANOBというカラオケスナックを開店したが2022年3月に閉店。
プロ選手時代の応援歌は、コンピュータゲーム『ドルアーガの塔』のエンディングテーマ曲が原曲。後に奈良原浩の応援歌として引き継がれた。
2020年より埼玉西武ライオンズ・レディースのヘッドコーチに就任。 同年8月末をもって退団。
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詳細情報
年度別打撃成績
記録
- 初出場:1983年8月10日、対西武ライオンズ16回戦(岩手県営野球場)、9回表に中堅手として出場[注 15]
- 初安打:1983年9月7日、対近鉄バファローズ20回戦(後楽園球場)、8回裏に村田辰美からバント安打
- 初盗塁:同上、8回裏に二盗(投手:村田辰美、捕手:梨田昌崇)
- 初先発出場:1983年9月14日、対南海ホークス22回戦(大阪スタヂアム)、9番・左翼手として先発出場
- 初打点:1984年4月17日、対阪急ブレーブス4回戦(後楽園球場)、9回裏に山本勝哉の代打として出場、佐藤義則から犠飛
- 初本塁打:1985年10月19日、対ロッテオリオンズ25回戦(川崎球場)、2回表に水谷則博から先制ソロ
背番号
- 54 (1979年 - 1983年)
- 39 (1984年 - 1994年)
- 83 (1995年 - 1996年)
- 82 (2000年 - 2003年)
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関連情報
出演番組
いずれも、解説者として出演のプロ野球中継。
- ヒットナイター(テレビ埼玉)[注 7]
- HBCスーパーベースボール(HBCラジオ)[注 9]
- 横浜DeNAベイスターズ主催試合中継(ABEMA配信) - 2017年より[注 14]
脚注
参考資料
関連項目
外部リンク
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