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ドラフト外入団

ドラフト制度が存在するプロスポーツ機構において、ドラフトを通さずに選手をチームに入団させること ウィキペディアから

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ドラフト外入団(ドラフトがいにゅうだん)は、ドラフト制度が存在するプロスポーツ機構において、ドラフトを通さずに選手をチームに入団させること。

概要

主に日本のプロスポーツに用いられる。ドラフト制が適用されないことが前提である外国人選手に対しては用いられない。

北米メジャースポーツでは、「アマチュア・フリーエージェント」として扱われる。

日本プロ野球

要約
視点

日本プロ野球(NPB)では、1965年ドラフト制度が導入された後も、ドラフト会議で指名されなかった選手を対象にスカウトなどの球団関係者が対象選手と直接交渉して入団させる「ドラフト外入団」が認められていた。当時のドラフト会議では、プロ野球選手の社会的地位がまだ低かった関係上[1]、指名して交渉権を得ても選手側から入団を拒否されたり、逆に球団側は上位指名選手との契約がまとまると、下位指名選手との交渉権を放棄し指名選手が入団できないケースもあり、その穴埋めとしてドラフト外入団という制度が必要だった。

1974年から1990年にはドラフト会議で指名できる選手が1球団6名までと制限された。また1978年から1980年の期間は、1球団4名までと制限されていたため、ドラフト外入団は戦力を補充する重要な手段とみなされた。ドラフト外入団選手の中には、球団が事前に実施していた入団テストで実力を認められて採用された選手も多かった。一方で、実力がありながらプロ入りを拒否、また希望球団以外の指名を拒否表明するなどしてドラフト指名されなかった選手を、有利な契約内容で説得してドラフト外入団させたり、球団職員・練習生として囲い込んでドラフト会議後にドラフト外で契約するなど、ドラフト制度の抜け穴にもなった。

これらがドラフト制度の目的である契約金の抑制や戦力均衡の弊害になると判断され、1990年限りでドラフト外入団は練習生制度とともに廃止された。廃止するにあたって、ドラフト会議では1球団10名まで指名できるようになり、当初の目的であった不足戦力の補充はドラフト下位で実現されることになった。制度の廃止に伴い、新入団選手向けの入団テストもドラフト前に行い、ドラフトでの指名が必要になった。

廃止当初は卒業見込の学生に限り、本人や家庭の特別な事情などでNPBに承認された場合のみ例外的に可能とされた。唯一の適用例として、1992年古河有一(ジョー古河)が、日本国籍を保持しつつも、日本での生活経験が少なく、海外の学校を卒業した日系人という事情から広島東洋カープへのドラフト外入団が認められた。結果的にこれが最後のドラフト外入団となった。

なお、練習生という概念は後に育成選手制度として再整備されることとなる。

ドラフト外で入団した選手の中には、江本孟紀加藤初松沼博久松沼雅之兄弟、西本聖大野豊松永浩美鹿取義隆秋山幸二石井忠徳(琢朗)など、プロ野球で実績を残した選手も多く存在する。しかし、前述のようにプロ入り拒否を明言しドラフト指名を回避した後にドラフト外によって希望の条件・球団で入団したり、鹿取については江川事件の余波で巨人がドラフト会議をボイコットをしたといった事情があるため、ドラフト外であるからといってスカウトからの評価が低いとは限らない。松沼兄弟や鹿取などはドラフト1位指名選手と同等の契約条件だったことを明かしており、秋山も4球団競合の末に西武にドラフト外で入団している。

ドラフト外で入団した選手総数については、NPB等で公式データとして記録されているのが公式戦に出場した選手のもので、一軍出場のないまま退団した選手が抜け漏れしている可能性があるため、正確な把握は難しいとされている[2]。特に支配下登録されずにそのまま退団した場合、チームスタッフとしての扱いなのかドラフト外入団の選手としての扱いなのかを区別する基準はない。スポーツ報知の記事によると1965年から1992年までにドラフト外入団した選手は663人いた[3]。ベースボールマガジンやデータスタジアムのデータベースなどをもとに行った集計から683人とする資料もある[2]

なお、2024年からオイシックス新潟アルビレックス・ベースボール・クラブくふうハヤテベンチャーズ静岡の2球団が二軍のみで参入しているが、これらの球団はドラフト会議に参加しない一方で、プロ野球志望届を提出したもののドラフトの指名を受けなかった選手を獲得することができる。ただし、NPBの他球団を経由せず両球団へ所属した指名漏れ選手が12球団へ移籍する場合はドラフト会議にかけることが必要とされ、ドラフト外入団は起きないような制度設計となっている[4]

主なドラフト外入団選手

1965年

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1966年

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1967年

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1968年

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1969年

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1970年

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1971年

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1972年

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1973年

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1974年

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1975年

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1976年

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1977年

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1978年

この年のドラフト会議では読売ジャイアンツが江川事件によって欠席したため、同球団への新入団選手は全員がドラフト外入団となった。

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1979年

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1980年

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1981年

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1982年

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1983年

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1984年

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1985年

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1986年

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1987年

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1988年

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1989年

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1990年

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1992年

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日本プロバスケットボール(bjリーグ)

bjリーグにもドラフト外入団制度が存在する。

合同トライアウトを通過した場合、ドラフト会議で指名されなくても、ドラフト外で入団する事が可能である。ただしドラフト選手とは異なり初年度はB契約となる。

主に最終選考参加者のうちドラフトされなかった選手が対象となるが、チームトライアウトを通過して入団に至る場合もある。また、当初は練習生として契約し、シーズン開幕直前あるいはシーズン中の凍結期間前にプロ契約を交わす場合もある。

ドラフト外でも青木康平(2005年、東京)、岡田優(2006年、高松)のようにルーキーシーズンからチームの主力として活躍する選手も存在する。

脚注

関連項目

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