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左近允尚敏
日本の海軍軍人 ウィキペディアから
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左近允 尚敏(さこんじょう なおとし、1925年(大正14年)2月11日 - 2013年(平成25年)6月30日)は、大日本帝国海軍の軍人、海上自衛官。最終階級は海軍大尉、海将。鹿児島県出身。海兵72期。
海軍中将左近允尚正の次男。多号作戦で駆逐艦「島風」砲術長[1]として「島風」沈没時(多号作戦)に戦死した海軍大尉左近允正章(まさふみ)は兄にあたる。
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経歴
兄の正章と同じく旧制横須賀中(30期)から海軍兵学校へ入校。1943年(昭和18年)9月に卒業(第72期)、海軍少尉候補生[2]。伊勢型戦艦1番艦「伊勢」乗組[2]。 乗艦実習の後、11月15日附で最上型重巡洋艦4番艦「熊野」乗組を命ぜられる[3]。なお、兄の正章も太平洋戦争開戦時に海軍少尉として「熊野」に勤務している[4][5]。
尚敏(少尉候補生)は「熊野」砲術士として勤務し、1944年(昭和19年)3月15日附で海軍少尉に任官[6]。引き続き「熊野」乗組となり、「熊野」航海士としてマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦に参加した。11月25日、「熊野」はフィリピンのサンタクルーズ湾(ルソン島)で撃沈された。
1945年(昭和20年)2月15日、艤装中の松型駆逐艦「梨」に着任[7]。「梨」は3月15日附で竣工し、尚敏中尉は「梨」航海長に補職された[8]。だが「梨」は7月28日に撃沈された。海軍大尉昇進後の8月8日、駆逐艦「初桜」の航海長に任命され[9]、同艦航海長として終戦の日を迎えた。「初桜」は9月28日、水先案内の士官を送り届けるため米艦隊を出迎えた。その後は、復員業務に従事した。
1952年(昭和27年)7月に海上自衛隊の前身である海上警備隊に入隊。海上自衛隊では、在インドネシア日本国大使館防衛駐在官、第4護衛隊群司令、練習艦隊司令官、防衛大学校訓練部長、統合幕僚会議事務局長兼統合幕僚学校長などを歴任し、1979年(昭和54年)11月に退官した。
自衛隊退官後は葉山町に在住し[10]、平和・安全保障研究所研究委員、産経新聞客員論説委員を経て平和・安全保障研究所研究委員会顧問、日本国際フォーラム政策委員[11]となった。
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エピソード
年譜
- 1940年(昭和15年)12月:海軍兵学校入校(第72期)
- 1943年(昭和18年)
- 1944年(昭和19年)
- 1945年(昭和20年)
- 1952年(昭和27年)7月:海上警備隊入隊(1等海上警備士)
- 1961年(昭和36年)1月:2等海佐
- 1962年(昭和37年)4月:護衛艦「はつひ」艦長
- 1965年(昭和40年)10月:在インドネシア日本国大使館防衛駐在官
- 1967年(昭和42年)7月1日:1等海佐に昇任
- 1968年(昭和43年)12月16日:第1駆潜隊司令
- 1970年(昭和45年)7月16日:中央通信隊群司令部幕僚
- 1971年(昭和46年)6月1日:海上幕僚監部防衛部通信課長
- 1973年(昭和48年)7月1日:少年術科学校長
- 1974年(昭和49年)
- 1月1日:海将補に昇任
- 6月16日:第4護衛隊群司令
- 1975年(昭和50年)12月16日:練習艦隊司令官
- 1976年(昭和51年)12月1日:防衛大学校訓練部長
- 1977年(昭和52年)7月1日:海将に昇任
- 1978年(昭和53年)7月1日:統合幕僚会議事務局長 兼統合幕僚学校長
- 1979年(昭和54年)11月20日:退官
- 1995年(平成 7年)4月29日:勲三等瑞宝章受章[17]
- 2013年(平成25年)6月30日:逝去(享年88)
著書
- 『防衛選書 海上防衛論』 麹町書房、1982.6
- 『敗戦―一九四五年春と夏』 光人社、2005.8/光人社NF文庫、2012.9
- 『捷号作戦はなぜ失敗したのか―レイテ沖海戦の教訓』 中央公論新社、2010.10
- 『ミッドウェー海戦「運命の5分」の真実』 新人物往来社、2011.6
訳書
脚注
参考文献
関連項目
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