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廣田浩章
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廣田 浩章(ひろた ひろあき、1964年2月26日 - )は、山口県萩市出身の元プロ野球選手(投手)。旧登録名は広田 浩章。2021年より九州アジアリーグの大分B-リングスで指導者(2021年は初代監督)を務めた。
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来歴・人物
要約
視点
プロ入りまで
萩商業高から、社会人野球の電電中国に進む。1983年の都市対抗野球に日本鋼管福山の補強選手として出場。翌1984年の都市対抗野球も川崎製鉄水島に補強され、岩手銀行との1回戦ではリリーフで好投、初勝利を飾る。しかし、2回戦では北海道拓殖銀行に打ち込まれ敗戦投手となった。翌1985年は自チームで都市対抗野球出場を果たし、リリーフエースとして自身としては3年連続の出場となった[1]。
プロ野球選手時代
1985年のプロ野球ドラフト会議にて読売ジャイアンツ(巨人)から2位指名を受けて入団。当時の監督は、後にホークスでも共にプレーすることになる王貞治だった。
1987年から速球とナックルカーブなどを武器に中継ぎとして起用され、同年は30試合に登板[2]。
藤田元司監督復帰初年度1989年、8勝11セーブを記録した。
長嶋茂雄監督時代の1993年にはトミー・ジョン手術を受けその年は一軍未登板、チームがリーグ優勝及び日本一になった翌年も戦力が充実していたチーム層もあり一軍未登板に終わり、オフに巨人から戦力外通告を受けた[3]。
その後、阪神タイガースの安芸秋季キャンプで入団テストを受験し、メディカルチェックを受ける条件付きで合格したが[4]、恩師の王監督から誘われ、福岡ダイエーホークスに入団[5]。阪神への入団を辞退し、同年11月22日にはダイエー入団が発表された[6]。移籍1年目は、開幕早々打球を足に受けて右膝の皿を骨折する[7]などの不運にも見舞われ、公式戦で登板機会は1995年と1996年の在籍2年間で18試合にとどまった。1996年オフにダイエーから2度目の戦力外通告を受け、ヤクルトスワローズと横浜ベイスターズの入団テストを受験[8][9]、同年12月17日、野村克也監督の率いるヤクルトに入団することが発表された。背番号は14、年俸は1000万円[10]。
1997年は野村監督のもと中継ぎとして復活し、投球フォームをオーバースローからスリークォーターに変更、持ち球の一つでしかなかったシュートを磨きこの年自己最多登板を更新[11]。ヤクルトのセントラル・リーグ(セ・リーグ)優勝および日本一に貢献した。
1998年も52試合に登板して、前年を上回る防御率2.56を記録した。前年に抑えを務めていた伊藤智仁が先発復帰したことや、抑えの高津臣吾が不調に陥ったことを受け、抑え投手としても起用され、チーム最多の7セーブをマークした。
若松勉新監督の下1999年も中継ぎとして、防御率2点台と結果を残したが、同年オフ、チームの若返りのため3度目の戦力外通告を受けた。横浜と大阪近鉄バファローズの入団テストを受け、横浜は不合格となったが[12]、近鉄のテストに合格、年俸1800万円で契約した。背番号51[13]。
2000年シーズンは近鉄(新監督:梨田昌孝)でプレーしたが、ヤクルト時代のような活躍はできず、同年オフに4度目の戦力外通告を受け、現役を引退した。
現役引退後
引退後はホークスで打撃投手(2001年 - 2011年)・スコアラー(2012年 - 2020年[14])を務めた。
2020年12月1日、2021年より発足する九州アジアリーグに加入する大分B-リングスの監督に就任することが発表された[15]。1シーズン務め、シーズン終了後の10月21日に2022年シーズンはGM兼投手コーチに変更となることが発表された[16]。2022年シーズン終了後の10月21日にコーチ退任が発表された[17]。GM職については言及されていなかったが、その後11月2日に岡崎郁がGMに就任することが発表されたため[18]、GM職も退任したとみられる。
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選手としての特徴
現役通算成績では、468回3分の2を投げて、被本塁打が22本しかなく、被本塁打率0.42と非常に低い。これは、同時期に活躍した斎藤雅樹(被本塁打率0.75)、桑田真澄(同0.86)、槙原寛己(同0.88)、高津臣吾(同0.96)、佐々木主浩(同0.85)らと比べても格段に低い。
詳細情報
年度別投手成績
- 各年度の太字はリーグ最高
記録
- 初登板:1987年6月6日、対広島東洋カープ9回戦(広島市民球場)、7回裏1死に3番手で救援登板、2/3回無失点
- 初奪三振:同上、7回裏に長内孝から
- 初勝利:1987年9月6日、対横浜大洋ホエールズ23回戦(横浜スタジアム)、5回裏1死に3番手で救援登板、2回2/3を無失点
- 初セーブ:1988年6月18日、対中日ドラゴンズ12回戦(ナゴヤ球場)、9回裏1死に3番手で救援登板・完了、2/3回無失点
- 初先発:1990年4月12日、対阪神タイガース2回戦(阪神甲子園球場)、5回1/3を2失点
- 初先発勝利:1991年8月18日、対中日ドラゴンズ18回戦(東京ドーム)、7回無失点
- 初完投:1991年8月27日、対中日ドラゴンズ20回戦(ナゴヤ球場)、8回5失点(自責点3)で敗戦投手
背番号
- 28 (1986年 - 1994年)
- 45 (1995年 - 1996年)
- 14 (1997年 - 1999年)
- 51 (2000年)
- 105 (2001年 - 2011年)
- 77 (2021年 - 2022年)
登録名
- 広田 浩章 (1986年 - 1993年)
- 廣田 浩章 (1994年 - 2000年)
脚注
関連項目
外部リンク
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